フーコーかぁ

 一人の思想家の議論を評価するにあたって、それを次のように分析しておくことは、一般に非常に有意義である。すなわち、彼の立てた問いと、それに対する答え方――あるいは、彼の立てた目標と、その達成度合い――。問いや目標の立て方と、それに対する答え方や達成度合いは、それぞれ独立に評価することができる。そして一般に、思想家の偉大さは、前者すなわち問いや目標の立て方の独自性に所以するといえる。これに対応して、この思想家に関する学説研究の価値も、その問いや目標の独創性の剔出においてこそ求められるべきである。本稿が、前章までの議論において、個々の問いに対するフーコーの答え方、個々の目標に対するフーコーの達成の度合いについては評価を控えつつ、ひたすらその問いの独創たる所以を明らかにしようとしてきたのはこのためである。
 他方で、当然ながらフーコー自身もまた、自ら立てた問いに答え、目標を実現せんとして具体的な努力を怠ってきたわけではない。そこで本章と次章では、自ら答えを探すフーコー、目標に向かって正しい道を模索するフーコーの姿を描き出すことにする。読者はそこで、前章までのしなやかで鮮やかなひらめきによって次々と独自の問いを立てる天才思想家とは対照的な、かび臭い古文献と文字通り埃まみれになりながら格闘する、努力する思想家の姿を見出すだろう。
 しかしそこに留まることは許されない。我々は前章までの成果をもとに、この思想家の努力を冷酷に批評する。フーコーは自分の立てた問いに正しく答えられているか。自分の立てた目標に向かって正しく進んでいるか。読者に少なからぬ動揺を巻き起こすであろう我々の結論を先取りしておこう。我々は詳細な検討の結果、フーコーの努力を、その基幹的な部分において拒絶する。フーコーは自らの立てた問いに答えておらず、自ら立てた目標を達成できていない。我々は、フーコーの不履行を宣告するのだ。
 
某氏の未完成学位論文からの抜粋「第5章 フーコーの不履行」より冒頭部分。

順調に進んでいるようでうらやましいです。上記引用箇所はその後、「ではいかなる要因が、初期軌道を歪めてしまったのだろうか。そこに働く力――我々はこの作用力を、19世紀の偉大なる科学者の名をとって〈コリオリの力〉と呼ぼう――とは一体何か。これが次章の主題を構成する。」と続きます。
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