山田昌弘『希望格差社会』

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

風邪引いて寝ていると普段読まない本を手に取ることになる。

1. 不安定化する社会の中で

普通に就職、結婚し、子育てをしている人々の中でも、将来生活に不安を感じる人が増えている。大人だけでなく、未来の日本社会を担う子どもたちも、将来の生活に悲観的になっている。(p. 10)

というが、示されている調査結果は、将来、日本や地域や自分の生活が今より豊かになるかどうか、という質問に対する回答の割合なのであって、これが直ちに不安感や悲観主義を示しているとはいえない。今が最高に豊かだと思っていれば、それ以上豊かになると答えることはないからだ。
 だいたい、著者がイメージする将来に対する希望というのは、

空中を自家用飛行機が飛び交い、家ではロボットが家事をこなし、病気で苦しんだり死ぬことはなくなる、世界政府ができて国際秩序を維持して戦争はなくなり、宇宙旅行で一家団欒を楽しむといった夢物語を想像することができた(p. 10)

といったものであって、今こんなことを想像していたらただの馬鹿だ。他方で、携帯電話、パソコン、インターネットといった文明の利器の普及によって、昔の子供たちの夢物語はかなりの程度実現しているではないか。昔の戦隊ものは手首につけた通信器具で基地と交信していたわけで、現在の携帯はその夢をもっとおしゃれな形で実現している(ゲームとかもできる!)。昔の子供が想像していた未来のコンピュータというのは馬鹿でかくていろんな色のランプがピコピコしていて変なテープがジジジっと出力されるといったもので、現在のパソコンはその当時想像も及ばなかったほどのものに急成長している。
 それはともかく、著者は上記調査結果などから、「生活の不安定さが増している」(p. 12)というが、「なんかよくわからないけど未来はすごいことになる!」とか夢想しているのと、「まあだいたい今くらいがピークじゃないかな」と思っているのと、どちらが不安定だろうか。
 あと細かい点だが、「時代変化に敏感で、不安定化の影響を真っ先に受けている若者たち」(p. 15)というのには非常に違和感がある。自分がそうだから自信を持って言えるが、若者は時代変化に極めて鈍感である。だいたい時代が「変化」したとわかるほど長く生きていないし、特に田舎から都会に出てきた場合、田舎から都会への生活環境の変化、自分自身の人間としての成長、そして大局的な時代の変化、の少なくとも3つの変化を同時に体験するわけで、どのファクターがどのように効いているのか抽出するのはまず無理である。時代変化だけに敏感になれるのは、生活環境と人間としてのあり方がある程度落ち着いた中年になってからだと考えるのが適当だろう。
 

2. リスク化する日本社会――現代のリスクの特徴

 著者はリスクを「何かを選択するときに、生起する可能性がある危険」(p. 26)と定義した上で、

リスクという言葉は近代社会になって生まれたものである。近代以前の伝統社会(おおむね欧米ではルネサンス以前、日本では明治維新以前の社会を想定)には、リスクという概念がなかった。(p. 28)

という。すごい主張だ。伝統社会にはリスク概念がなかった!なぜなら

前近代社会は、「あえてする」という意味でのリスクとは無縁な社会であった。なぜなら、伝統社会においては、「人生を自分で選択する」という概念自身がなかったからだ。(p. 28)

常識的に考えて、そんなわけがないというのが適当だろう。リスク概念がないと、戦争などできない(戦略という概念が意味を持たない)し、戦場で死を賭して武功を挙げようとすることもできないし、一般に賭博ができない。著者が挙げている「結婚相手でさえも自由に決めることができなかった」(p. 29)という例にしても、かりに本人は選択していなくても誰か(親)が選択しているのであって、もらった嫁が「石女」だったら大変だみたいなリスク意識を持っていなかったわけがない。
 「〜は近代になって初めて生まれた」「前近代にはなかった」みたいな言い方を社会学者はよくするが、実のところそれはすごい主張なのだから、根拠とされているデータを最大限慎重に検討しなければならない。

3. 二極化する日本社会――引き裂かれる社会

例えば、医者同士、弁護士同士、教員同士で結婚したカップルと、フリーター同士で結婚したカップルでは、個人の収入格差以上に、世帯の生活水準の格差がつき、将来の生活見通しにいたっては、絶望的なほどの格差がつくことが予想される。(中略)この若者が年をとって中高年となる20年後、30年後には、絶望的な格差が現実のものとして体験されると予想できる。(pp. 65-66)

 一般に、人は格差の存在それ自体に絶望したりはしない。絶望の対象となるのは貧困、つまり絶対的な生活水準の低さである。格差やそれを乗り越えることの困難に絶望するのは、その格差が貧困層と普通層の間のものである場合だろう。つまり、格差を乗り越えようと強く思って努力してそれでも駄目なときに人は絶望する。そして、下層の人みんなが「格差を乗り越えようとしている」というモデルが説得力を持つのは、下層=貧困という等式が成り立つ場合に限られる。
 たとえば私の生活水準とビル・ゲイツのそれの間には、埋めようとすれば「絶望的」な格差があるだろう。しかし私は(20代の間ほとんど無収入なのに!)別にビル・ゲイツみたいになりたいなどとは思っていない。この格差に絶望などはしない。むしろ金持ちは金持ちで大変だろうなと思う。現在の生活にある程度満足しているからだ。
 本書で「絶望」というのは「希望がない」ことを意味し、「希望格差社会」を構成する重要な要素となっているが、どうも上記のような無理のあるモデル(=誰もが格差を埋めようとしている)を自明視しているような気がする。

(以上、第3章までしか読んでないのでその点はあしからず)