ファジィ

具体性を扱えるという点でファジィ理論は偉いけど自分の「臨床の知」にはかなわないよ、という話。

たとえばスペンサー・ブラウンの『形式の法則』という本だったかと思いますが、自然言語の論理を論理化して体系づけていくのに、いちばんの出発点は境界を導入することからはじめていますね。全体系を境界性ということだけで記述して体系づけようとしていますよね。だから自然言語にしても、数学的な言語にしても、どんな形にしても、境界を導入してしまうという問題は、最後まで残るのではないのかな。(58頁、中沢。)

ああ出てきた出てきた、というだけだが。そういえばオートポイエーシスは二値だからファジィとは発想が反対なのかなと思うけどどうなんだろう。

ファジィ論をやっている人は神秘家に近いのではないかな。(65頁、菅野)

たとえば、マヤ文明がなんで崩壊したかというような問題を、ファジィ理論で考えていくことは絶対可能だと思うのです。(94頁、中沢)

・・・

村上 やっぱり八百万の神もファジィなのかな。
中沢 だらしなさ……(笑)
(107頁)

なんだこのぐだぐだな終わり方は。

  • 3 「ファジィ理論の目指すもの――主観の科学化から科学の主観化へ」(菅野道夫)

本も半ばにいたって一度もファジィの定義が出てこず、二値論理の悪口とか、ファジィが無視されているのはこれを受け入れると西洋人が実存の危機に陥るからだみたいな陰謀論ばっかりで飽きてきた。
 (追記)この論文、センター試験に出たらしい・・・

いくら非二値といったってメンバーシップ関数を持つか持たないかは二値だろうという観点から批判的検討があるのかと思ったら何かよくわからない示唆だけで終わった。「え、もう終わり?」と叫んでしまった。

ようやくまともな論考が登場。

ファジィ理論がこの種のパラドックスによって論理的妨害を受けなかったのは、解析学がゼノンのパラドックスによって窒息しなかったのと同様である。論理的に不可能であるにもかかわらず運動が存在する、のではなく、運動をうまく扱えるような数学がつくられねばならなかったのであり、たといそのような数学の無矛盾性が証明されなかったとしても、それは有用であり続ける。同じように、ファジィ述語は論理的に矛盾しているにもかかわらず日常言語に広く浸透している、のではなく、ファジィ述語をうまく扱えるような論理学がつくられねばならなかったのであり、ファジィ述語からあらゆるファジィネスを除去し、それを正確で厳密な述語に置き換えることができるという仮定のもとでのみ、パラドックスが生まれたのである。(p. 166)

わかったようなわからんような。

  • 6 「技術の進歩とファジィ・システム――矛盾があるから人間は進歩する」(寺野寿郎)

コンピュータ任せだと管理社会になるよ、みたいな説教論文。その観点からのマン‐マシン関係の話。ファジィほとんど出てこず。

残念なことには、その後、この研究所[=イタリアの国立サイバネティクス研究所]は後継者がなく解散してしまったようだが、これも組織より個人を中心とするイタリーらしいともいえる。(p. 215)

なんだそれ。

最終章にしてようやく基礎概念の定義が出てきた。本当ならこの章を最初に持ってこないとなあ。ファジィっていうのは結局、集合への所属度を0から1の間の実数で表現することで、どの程度所属しているかを数値表現するってことなのか。ということは、曖昧性を(無理に)明確に数値表現しているわけで、これで曖昧さそれ自体を科学的に扱えているというのはちょっと・・・。こういう無理な処理に(学問的に革命的な)価値があると思えるのは、日常言語における曖昧な言語使用というものが事態の記述という機能しか果たしていない、という貧困な言語観しか持っていないことの表れではないだろうか。(だから評価は、工学的応用でどれだけ実益が上がるかということでしかできないだろうと思う。応用の状況を知りたいと思った。)