機能分析

ルーマンの用語法において、「機能的方法」(funktionale Methode)とか「機能分析」(funktionale Analyse)と呼ばれるものは、すべて、「比較」(Vergleich)という操作と論理的に等価である。それゆえ、ルーマンによる「機能」(Funktion)概念の定式化とその意義を理解するためには、まず、対象に対する通常の学問的・実践的処理方法としての比較について、それが対象に対して何をすることであるのかを改めて確認しておくと、この後の議論にとって都合がよい。
まず、比較というのは複数の対象に対してほどこす操作である。1つの対象に対して、それを比較する、という言明は無意味である。以下しばらく、議論の単純化のために、2つの対象AとBを用意して、両者の比較について考えるが、それによって議論の一般性は失われない。
次に、2つの対象を「比較する」ということは、2つの対象を「並べる」ということと同じではない。AとBの並置という事態は、比較という一連の操作のうちのある段階、あるいはある側面を切り出したものであるということは言えても、それ以上のものではない。比較という操作から我々が得ている認識利得は、決して単なる並置からは得られない。
ところで、2つの対象を「並べる」というのは、言うまでもなく譬喩である。単に並置するという以上のことはしない、という消極的なニュアンスを強調するために用いた表現であるが、学問用語としてより適切な表現を用いるなら、対象を「具体的」(konkret)に扱う、と言い換えることができる。さて、しかし、これは矛盾表現である。対象が具体的であるということは、そこから何一つ捨象されていないということにほかならない。ところが、対象に対する我々の操作は、具体的対象に対する捨象(Abstraktion)を伴わずにはいられない。ここでいう操作には、その対象を対象として捉えること、扱うこと、認識することもまた含まれる。それゆえ、対象を具体的に扱うことは不可能である。対象として認識され何らかの扱いを受けている時点で、真の意味での具体性はその対象からは失われている。その意味で、実は、単に並べるだけ、ということもまた不可能である。認識もまた操作の一種である以上、何らかの対象に対する我々の態度には、必然的に捨象が伴う。あるいは、対象とはつねに抽象的(abstrakt)な構築物である、と言ってもよい。いずれにせよ、単に並べているだけのつもりでも、我々は対象に対して、「単に並べる」以上のことをしている。これを一言でいえば抽象(Abstraktion)である。


(つづく)