箕面忠魂碑事件判例


主文

本件上告を棄却する。
上告費用は上告人らの負担とする。


理由

上告代理人兼上告補助参加人代理人熊野勝之、同藤田一良、同加島宏、同坂和優、同小坂井久、同川下清の上告理由第一点ないし第四点、第一〇点及び第三〇点について

一 所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし、首肯することができ、原判決に所論の違法はない。原審の適法に確定した事実関係の大要は、次のとおりである。

1 本件忠魂碑の移設、再建に至る経緯について

(一) E会F支部G分会(以下「分会」という。)は、大正5年4月10日、会員の勤労奉仕により、H小学校用地に隣接したa村役場の敷地内に忠魂碑を建立した(以下、原判決添付の別紙物件目録二記載の本件敷地上に移設される以前のものを「旧忠魂碑」といい、移設後のものを「本件忠魂碑」という。)。分会は、旧忠魂碑の建立に際し、a村に対し、当時a村役場の敷地であった土地の一部(大阪府豊能郡a村大字bc番ノdのうち49坪)の無償貸与を申し入れた。これに対し、a村は、分会に対し、村会の議決を経た上で旧忠魂碑の敷地として右土地を無償かつ無期限で貸し付けることとし、また、分会が旧忠魂碑の前で慰霊祭をする際に貸与地の周囲約100坪の空き地を利用することを許諾した。分会は、昭和14、5年ころまで同所で毎年慰霊祭を催していたが、その後は戦争が激しくなってその余裕がなくなった。

(二) 戦後、昭和20年12月15日、連合国軍最高司令官総司令部から政府にあてて、いわゆる神道指令(「国家神道神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全及監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)が発せられ、これにより、我が国において政教分離が実現されることになった。政府は、右総司令部の占領政策を受けて、「公葬等について」(昭和21年11月1日発宗第51号内務文部次官通達)及び「忠霊塔忠魂碑等の措置について」(昭和21年11月27日内務省警保局長通達)の各通達を発し、学校及びその構内並びに公共建造物及びその構内又は公共用地に存する忠魂碑等を撤去する方針を打ち出したことから、旧忠魂碑は、昭和22年3月末ころ、分会員の手により、その碑石部分だけが取り外されてその付近の地中に埋められ、基台部分はそのままの状態で放置されるに至った。その後、戦没者遺族等の間でこれを再建する話が持ち上がり、昭和26年ころ、埋められた碑石が堀り出され、旧忠魂碑が元どおりに再建された。右再建は、戦没者遺族の援護、厚生、福祉及び戦没者の追悼、慰霊等を目的として戦後間もなく結成されたJ遺族会が中心となって実行したものであった。その後、J遺族会は、昭和27年9月ころにK戦没者遺族会、昭和31年12月1日にL戦没者遺族会(以下「市遺族会」という。)と改称され、市遺族会の下部組織であるM戦没者遺族会(以下「地区遺族会」という。)の会員が旧忠魂碑を清掃管理し、昭和30年ころから、同遺族会が主催して、毎年4月ころ、碑前で神社神職又は僧侶の主宰の下に神式、仏式隔年交替でそれぞれの儀式の方式に従い、慰霊祭を営んできた。

(三) 箕面市においては、H小学校の児童数が昭和40年以降急増し、しかも昭和初期に建築された校舎の老朽化が進み、また、特別教室の新築に迫られ、昭和45年ころには箕面市教育委員会の調査により校舎が危険な状態にあることが判明したことから、昭和48年ころには、同小学校の校舎の建替え、増築、校庭の拡張をすることが急務となった。箕面市がこれを行うためには、同小学校用地に隣接する前記役場敷地内の旧忠魂碑を他に移転し、その敷地の明渡しを受けてこれを学校用地に編入する必要があった。そこで、箕面市は、当時、旧忠魂碑の所有者が誰であるかを明確に判定することはできなかったが、市遺族会の下部組織である地区遺族会がこれを清掃し、碑前で慰霊祭を行うなどしてこれを管理し、その敷地を使用していたことから、分会の有していた旧忠魂碑の所有権及び敷地利用権を市遺族会が取得していたものと判断し、市遺族会を旧忠魂碑明渡請求の交渉相手に選んで折衝を重ね、昭和50年5月21日、箕面市と市遺族会との間で、旧忠魂碑を現状有姿のまま、かつ、碑前で慰霊祭を行うために必要な広さを確保するなどの条件で本件敷地に移設する旨の合意が成立した。

(四) 箕面市は、旧忠魂碑を移設するための代替敷地を確保するため、昭和50年7月10日付けでN土地開発公社から原判決添付の別紙物件目録一記載の土地(以下「本件土地」という。)を7882万6824円で買い受け(以下「本件売買」という。)、その引渡しを受け、同年12月20日、旧忠魂碑を本件土地の一部である本件敷地に移設、再建し(以下「本件移設・再建」という。)、市遺族会に本件敷地を管理使用させた。箕面市は本件移設・再建の工事をO建設株式会社に請け負わせ、同社に請負工事代金704万2120円を支払った。

(五) その後、被上告人B1市長は、同市の監査委員から、速やかに本件忠魂碑の権利者を確定した上、本件敷地の貸与に必要な箕面市議会の議決を求めるよう処置すべきである旨の勧告を受けたことから、箕面市は、大阪地方裁判所に対し、民法75条の規定により、同市が利害関係人となって、分会清算人の選任を請求した。同地裁が選任した分会清算人は、昭和51年2月25日、箕面市と市遺族会との間の前記合意を追認した上、市遺族会及び同市と協議した結果、同年3月8日、右三者間で、(1)分会は、市遺族会に対し、本件敷地の使用借権を譲渡し、本件敷地所有権者である同市は、箕面市議会の議決を得ることを条件として市遺族会の本件敷地の無償使用を承認する、(2)分会は、市遺族会に対し、右箕面市議会の議決を条件として本件忠魂碑を贈与する、(3)市遺族会は、本件忠魂碑を戦没者慰霊の目的に供することを約する、との合意が成立した。これを受けて、箕面市議会は、同年3月12日、地方自治法96条1項6号の規定に基づき、箕面市が市遺族会に対し本件敷地を無償で貸し付けること(以下「本件貸与」という。)を可決した。

(六) 本件忠魂碑は、二重の石積の基台の上に台石を配し、その上に幅約1.5メートル、厚さ約0.4メートル、高さ約2.5メートルの碑石が安置されており、地上から碑石最高部までの高さは6.3メートルである。その周囲は、切石積で囲まれ、正面と両側面前部には御影石玉垣、背面と両側面後部にはキンモクセイの生け垣が巡らされており、右切石積の囲い内部には、カイヅカイブキ、マツ、サツキ等が随所に植えられ、白砂利が敷きつめられている。なお、昭和41年ころ、当時、市遺族会の会長であったPが、沖縄の「Q」を参考にして、過去帳記載の戦没者の氏名を丸杉板及び「霊璽」と印された木柱に移記し、これらを本件忠魂碑の基礎台中に納めたが、これらは、宗教上の手続に従って行われたものではなく、また、特に遺族関係者に周知させる措置を採らなかったため、市遺族会の会員すらその存在を知らなかった。


2 忠魂碑の由来について

(一) 忠魂碑、招魂碑等の文字を刻した碑は、幕末期に国事に殉じた者を慰霊、顕彰する目的で幕末期ないし明治初年ころから建立され始め、西南の役における戦没者のために各地で盛んに建立された。特に、多数の戦死者を出した日露戦争後には、おびただしい数の戦没者の慰霊、顕彰のための碑が建立され、その碑銘として、忠魂碑の名称が一般化した。その平均的様式は、表面に縦書きに「忠魂碑」と陰刻され、その傍らに揮ごうした者の姓名が小さく刻され、裏面には、戦没者の名が刻されることもあったが、通常は、建立年月日のみが刻されていた。

(二) その後、昭和6年満州事変、昭和12年に始まった日華事変等により戦没者が再び急増したため、戦没者の出身地において、在郷軍人会を中心として忠魂碑の建立の動きが活発になったが、政府は、戦時中でもあったため、忠魂碑その他の記念碑の建立運動に対して抑制的な姿勢で臨んだ。また、昭和11年ころから、陸軍の支援により、戦没者の遺骨を納めるいわゆる忠霊塔の建設が行われ、これが公営墳墓として戦没者の霊を祭るようになった。忠霊塔の建設が盛大になるのに伴い、昭和16年ころ以降は、新たな忠魂碑の建立は少なくなった。

(三) 忠魂碑等の碑前での慰霊祭等については、日清戦争後の明治31年4月に、神社行政を担当していた内務省社寺局は、埼玉県からの照会に対し、招魂碑、忠霊碑等の碑を参拝の目的物とし、神事又は仏事によってその祭事をすることは許可できない旨を回答し、この種の碑が参拝の目的として建てられ、祭事が営まれることを容認しなかった。しかしながら、戦没者の弔祭、慰霊、顕彰等の事業を行い、忠魂碑の設置、管理を行うことを重要な業務とするR会は、忠魂碑を建立した際、除幕式あるいはこれと併せて追悼会、招魂祭、慰霊祭を挙行することを常とし、追悼会、慰霊祭の名で実施される祭典は仏式のものが多かったが、除幕式、招魂祭の名で実施される祭典は、神式又は仏式あるいは神仏併用方式又は神式・仏式の隔年交替により行われた。神社界は、神仏併用方式で招魂祭が行われることを好ましいものとは考えなかったが、現実には、これが広く行われた。満州事変以後、特に昭和10年代には、戦線の拡大と戦没者の増加に伴い、忠魂碑前での慰霊祭が盛大に催され、右慰霊祭には、戦没者遺族、従軍者各団体のほか一般住民及び児童、生徒も参列して、忠魂碑を参拝するようになった。昭和10年には、内閣書記官長の通達によって、各学校長に対し、児童、生徒に忠魂碑を参拝させることが命ぜられた。

(四) 戦後、前記のとおり、連合国軍最高司令官総司令部から政府にあてて、いわゆる神道指令が発せられ、政府は、右総司令部の占領政策を受けて、前記「公葬等について」及び「忠霊塔忠魂碑等の措置について」の各通達を発し、これにより忠魂碑、忠霊塔等は、学校及びその構内にあるものはすべて撤去すべきものとされたが、それ以外の公共建造物及びその構内又は公共用地に存するものについては、明白に軍国主義的又は超国家主義的な思想の宣伝鼓吹を目的とするもののみが特に撤去の対象とされたのであって、単に、戦没者のための碑であることを示すにとどまる忠魂碑等は原則として撤去の必要はないものとされた。昭和27年4月、講和条約の発効を機会に、戦没者慰霊のための碑を建設しようとする気運が遺族、戦友を中心として高まり、占領中に撤去された忠魂碑、忠霊塔が続々と再建又は復元されたほか、新規にも建立されたが、新規に建立された碑の形状等は多岐にわたっており、碑銘も「忠魂碑」のほか「慰霊碑」、「慰霊塔」、「彰忠碑」、「英霊碑」等、種々のものがあり、これらの碑は、碑前で慰霊祭が行われるものと行われないものとがあり、その祭式も、仏式、神式、神仏併用方式、神式・仏式隔年交替方式、無宗教方式等の様々のものがあり、また、その主催者も、遺族会、市町村、自治会等、多様である。



二 憲法は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」(20条1項前段)とし、また、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」(同条2項)として、いわゆる狭義の信教の自由(個人の信教の自由)を保障する規定を設ける一方、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」(同条1項後段)、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」(同条3項)とし、更に「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため……これを支出し、又はその利用に供してはならない。」(89条)として、いわゆる政教分離の原則に基づく諸規定(以下「政教分離規定」という。)を設けている。元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であって、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。そして、憲法政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが、我が国の社会的、文化的諸条件に照らし、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものと解すべきである。右政教分離原則の意義に照らすと、憲法20条3項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきであり、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するか否かを検討するに当たっては、当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に従ったものであるかどうかなど、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならないものである(最高裁昭和46年(行ツ)第69号同52年7月13日大法廷判決・民集31巻4号533頁、同昭和57年(オ)第902号同63年6月1日大法廷判決・民集42巻5号277頁)。
右の見地に立って、本件をみるのに、前記の事実関係及び原審の適法に確定したその余の事実関係によれば、(1)旧忠魂碑は、地元の人々が郷土出身の戦没者の慰霊、顕彰のために設けたもので、元来、戦没者記念碑的な性格のものであり、本件移設・再建後の本件忠魂碑も同様の性格を有するとみられるものであって、その碑前で、戦没者の慰霊、追悼のための慰霊祭が、毎年1回、市遺族会の下部組織である地区遺族会主催の下に神式、仏式隔年交替で行われているが、本件忠魂碑と神道等の特定の宗教とのかかわりは、少なくとも戦後においては希薄であり、本件忠魂碑をS神社又はT神社の分身(いわゆる「村の靖国」)とみることはできないこと、(2)本件忠魂碑を所有し、これを維持管理している市遺族会は、箕面市内に居住する戦没者遺族を会員とし、戦没者遺族の相互扶助・福祉向上と英霊の顕彰を主たる目的として設立され活動している団体であって、宗教的活動をすることを本来の目的とする団体ではないこと、(3)旧忠魂碑は、戦後の一時期、その碑石部分が地中に埋められたことがあったが、大正5年に分会がa村の承諾を得て公有地上に設置して以来、右公有地上に存続してきたものであって、箕面市がした本件移設・再建等の行為は、右公有地に隣接するH小学校における児童数の増加、校舎の老朽化等により校舎の建替え等を行うことが急務となり、そのために右公有地を学校敷地に編入する必要が生じ、旧忠魂碑を他の場所に移設せざるを得なくなったことから、市遺族会との交渉の結果に基づき、N土地開発公社から本件土地を買い受け、従前と同様、本件敷地を代替地として市遺族会に対し無償貸与し、右敷地上に移設、再建したにすぎないものであることが明らかである。
これらの諸点にかんがみると、箕面市が旧忠魂碑ないし本件忠魂碑に関してした次の各行為、すなわち、旧忠魂碑を本件敷地上に移設、再建するため右公社から本件土地を代替地として買い受けた行為(本件売買)、旧忠魂碑を本件敷地上に移設、再建した行為(本件移設・再建)、市遺族会に対し、本件忠魂碑の敷地として本件敷地を無償貸与した行為(本件貸与)は、いずれも、その目的は、小学校の校舎の建替え等のため、公有地上に存する戦没者記念碑的な性格を有する施設を他の場所に移設し、その敷地を学校用地として利用することを主眼とするものであり、そのための方策として、右施設を維持管理する市遺族会に対し、右施設の移設場所として代替地を取得して、従来どおり、これを右施設の敷地等として無償で提供し、右施設の移設、再建を行ったものであって、専ら世俗的なものと認められ、その効果も、特定の宗教を援助、助長、促進し又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められない。したがって、箕面市の右各行為は、宗教とのかかわり合いの程度が我が国の社会的、文化的諸条件に照らし、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものとは認められず、憲法20条3項により禁止される宗教的活動には当たらないと解するのが相当である。
また、所論は、箕面市の右各行為は憲法20条1項後段、89条にも違反する旨主張するが、箕面市の右各行為が憲法政教分離規定の基礎となる政教分離原則に違反するものでないことは、右に述べたとおりであり、また、本件忠魂碑を所有し、これを維持管理している市遺族会は、憲法20条1項後段にいう「宗教団体」、89条にいう「宗教上の組織若しくは団体」のいずれにも該当しないと解すべきことは、後述のとおりであるから、箕面市の右各行為は憲法の右各規定に違反するものとはいえず、右違憲の主張も理由がない。
以上の点は、前掲各大法廷判決の趣旨に徴して明らかというべきである。
右と同趣旨の原審の判断は正当として是認することができ、原判決に、所論の違憲、違法はない。論旨は、いずれも採用することができない。


同第一点(右に判断した点を除く。)、第七点ないし第九点について

憲法20条1項後段にいう「宗教団体」、憲法89条にいう「宗教上の組織若しくは団体」とは、宗教と何らかのかかわり合いのある行為を行っている組織ないし団体のすべてを意味するものではなく、国家が当該組織ないし団体に対し特権を付与したり、また、当該組織ないし団体の使用、便益若しくは維持のため、公金その他の公の財産を支出し又はその利用に供したりすることが、特定の宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になり、憲法上の政教分離原則に反すると解されるものをいうのであり、換言すると、特定の宗教の信仰、礼拝又は普及等の宗教的活動を行うことを本来の目的とする組織ないし団体を指すものと解するのが相当である。このことは、前掲各大法廷判決の趣旨に徴して明らかである。
本件についてこれをみるのに、所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、右事実及び原審が適法に確定したその余の事実関係によれば、財団法人D会及びその支部である市遺族会、地区遺族会は、いずれも、戦没者遺族の相互扶助・福祉向上と英霊の顕彰を主たる目的として設立され活動している団体であって、その事業の1つである英霊顕彰事業として、政府主催の遺骨収集、外地戦跡の慰霊巡拝、全国戦没者追悼式等への参加、協力などの活動のほか、神式又は仏式による慰霊祭の挙行、S神社の参拝等の宗教的色彩を帯びた行事をも実施し、S神社国家護持の推進運動にも参画しているが、右行事の実施及び右運動への参画は、会の本来の目的として、特定の宗教の信仰、礼拝又は普及等の宗教的活動を行おうとするものではなく、その会員が戦没者の遺族であることにかんがみ、戦没者の慰霊、追悼、顕彰のための右行事等を行うことが、会員の要望に沿うものであるとして行われていることが明らかである。
これらの諸点を考慮すると、財団法人D会及びその支部である市遺族会、地区遺族会は、いずれも、特定の宗教の信仰、礼拝又は普及等の宗教的活動を行うことを本来の目的とする組織ないし団体には該当しないものというべきであって、憲法20条1項後段にいう「宗教団体」、憲法89条にいう「宗教上の組織若しくは団体」に該当しないものと解するのが相当である。これと同旨の原審の判断は正当として是認することができ、原判決に所論の違憲、違法はない。論旨は、いずれも採用することができない。


同第五点及び第六点について

原判決に所論の違法はなく、論旨は、いずれも採用することができない。


同第一一点、第一二点及び第二八点について

一 本件各慰霊祭について、原審の適法に確定した事実関係の大要は、次のとおりである。
1 市遺族会の下部組織である地区遺族会は、昭和51年4月5日午前10時30分ころから午前11時30分ころまで、本件忠魂碑前で、神式で慰霊祭を挙行した。主催者側として市遺族会会長その他市遺族会の役員及び会員が、来賓として箕面市の市議会議長、市議会議員、社会福祉事務所長、市福祉部長、各地区の自治会長、市商工会長、U小学校長、市長である被上告人B2、市教育委員会委員長である亡V(第一審被告)、同委員会委員兼教育長である被上告人B3ら合計約100名が、これに参列した。式は、神社神職がこれを主宰し、神式によって執り行われ、市遺族会会長が「慰霊の詞」を、被上告人B2及び市議会議長が「追悼の辞」を、それぞれ本件忠魂碑に向かって読み上げた。その後、司会者が職名を呼び上げるのに応じて、参列者が、順次、祭壇前に進み、神職から玉串を受け取って本件忠魂碑に向かって二礼二拍手一礼をし、玉串を祭壇に捧げた。最後に、司会者が「これにて神事を終わります。」と告げ、閉会の辞を述べて式を終えた。

2 地区遺族会は、昭和52年4月5日午前10時30分ころから午前11時30分ころまで、本件忠魂碑前で、仏式で慰霊祭を挙行した。参列者は、昭和51年の慰霊祭のときと同様で、約100名であった。式は、W宗X寺住職、Y宗Z派Aa寺住職ら計7名の僧侶がこれを主宰し、まず、司会者が、式次第に従って開会の辞を述べ、その後、参列者一同が黙とうし、阿彌陀経等の読経、導師表白文の朗読、慰霊追悼文の朗読と続いた。そして、参列者一同が祭壇前で焼香を行い、最後に、司会者が閉会の辞を述べて式は終了した。

3 被上告人B3は、地区遺族会から招待を受け、戦没者やその遺族に対し弔意、哀悼の意を表する目的で本件各慰霊祭に来賓として参列したが、参列者の一員として、昭和51年の慰霊祭では玉串を祭壇に捧げ、昭和52年の慰霊祭では焼香をしたにとどまり、来賓としての挨拶、慰霊追悼文の朗読などはしなかった。



二 被上告人B3が本件各慰霊祭に参列した行為が、憲法上の政教分離原則及びそれに基づく政教分離規定に反するものであるか否かをみるのに、右事実関係及び
原審が適法に確定したその余の事実関係によれば、(1)旧忠魂碑は、地元の人々が郷土出身の戦没者の慰霊、顕彰のために設けたものであり、元来、戦没者記念碑的な性格のものであって、本件移設・再建後の本件忠魂碑も同様の性格を有するとみられるものであること、(2)本件各慰霊祭を挙行した市遺族会の下部組織である地区遺族会は、箕面地区に居住する戦没者遺族を会員とする団体であって、特定の宗教の信仰、礼拝又は普及等の宗教的活動を行うことを本来の目的とする団体ではないこと、(3)本件各慰霊祭への被上告人B3の参列は、地元において重要な公職にある者の社会的儀礼として、地区遺族会が主催する地元の戦没者の慰霊、追悼のための宗教的行事に際し、戦没者やその遺族に対して弔意、哀悼の意を表する目的で行われたものであることが明らかである。
これらの諸点にかんがみると、被上告人B3の本件各慰霊祭への参列は、その目的は、地元の戦没者の慰霊、追悼のための宗教的行事に際し、戦没者遺族に対する社会的儀礼を尽くすという、専ら世俗的なものであり、その効果も、特定の宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為とは認められない。したがって、被上告人B3の本件各慰霊祭への参列は、宗教とのかかわり合いの程度が我が国の社会的、文化的諸条件に照らし、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものとは認められず、憲法上の政教分離原則及びそれに基づく政教分離規定に違反するものではないと解するのが相当である。
以上の点は、前掲各大法廷判決の趣旨に徴して明らかというべきである。
これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違憲、違法はない。
さらに、所論は、被上告人B3が本件各慰霊祭に参列した行為が憲法20条2項に違反するものであり、同人に対する右参列に要した時間に相当する分の給与の支給は違法である旨主張するが、右規定は、狭義の信教の自由を直接保障する規定であり、同人の信教の自由の侵害に関する事実は原審において認定されていないから、右違憲の主張は、その前提を欠く。また、同人に対する右参列に要した時間に相当する分の給与の支給を適法とした原審の判断は正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。
論旨は、いずれも採用することができない。


同第一三点ないし第二一点について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。所論引用の各判例は、事案を異にし本件に適切でない。論旨は、いずれも採用することができない。


同第22点について

一 論旨は、B1市長である被上告人B2が本件各慰霊祭及びその準備のため本件市財産(市役所庁舎会議室、封筒、マイクロバス、乗用車及び事務用紙)を使用又は消費させるなどし、その管理を怠ったことが違法であることを理由とする同人に対する地方自治法242条の2第1項4号所定の「当該職員」に対する損害賠償請求につき、本件市財産の管理権限は、いずれもB1市長から所管の各課長に委任されているから被上告人B2は同号にいう「当該職員」に該当しないとして右請求に係る訴えを不適法であるとした原審の判断は、右規定の解釈適用を誤ったものであり、最高裁昭和55年(行ツ)第157号同62年4月10日第二小法廷判決(民集41巻3号239頁)に違反する、というのである。



二 本件市財産の管理権限は、いずれもB1市長から所管の各課長に委任されているとした原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができる。
そこで、以下、被上告人B2に対する右損害賠償請求の適否等について検討する。
地方自治法242条の2第1項4号にいう「当該職員」とは、当該訴訟においてその適否が問題とされている財務会計上の行為を行う権限を法令上本来的に有するとされている者及びこれらの者から権限の委任を受けるなどして右権限を有するに至った者を広く意味するものである(前掲第二小法廷判決参照)。普通地方公共団体の長は、当該普通地方公共団体を代表する者であり(同法147条)、当該普通地方公共団体の条例、予算その他の議会の議決に基づく事務その他公共団体の事務を自らの判断と責任において誠実に管理し及び執行する義務を負い(同法138条の2)、予算の執行、地方税の賦課徴収、分担金、使用料、加入金又は手数料の徴収、財産の取得、管理及び処分等の広範な財務会計上の行為を行う権限を有する者であって(同法149条)、その職責及び権限の内容にかんがみると、長は、その権限に属する一定の範囲の財務会計上の行為をあらかじめ特定の吏員に委任することとしている場合であっても、右財務会計上の行為を行う権限を法令上本来的に有するものとされている以上、右財務会計上の行為の適否が問題とされている当該代位請求住民訴訟において、同法242条の2第1項4号にいう「当該職員」に該当するものと解すべきである。そして、右委任を受けた吏員が委任に係る当該財務会計上の行為を処理した場合においては、長は、右吏員が財務会計上の違法行為をすることを阻止すべき指揮監督上の義務に違反し、故意又は過失により右吏員が財務会計上の違法行為をすることを阻止しなかったときに限り、自らも財務会計上の違法行為を行ったものとして、普通地方公共団体に対し、右違法行為により当該普通地方公共団体が被った損害につき賠償責任を負うものと解するのが相当である。
してみると、本件市財産の管理権限が、前記のとおり、いずれも所管の各課長に委任されているとしても、B1市長である被上告人B2は、右管理権限を法令上本来的に有するとされている者であるから、同法242条の2第1項4号にいう「当該職員」に該当するものと解すべきであり、これと異なる見解に立って、被上告人B2に対する右損害賠償請求に係る訴えを不適法であるとした原審の判断には、右規定の解釈適用を誤った違法があるといわざるを得ない。



三 しかしながら、右の違法は、原判決の結論に影響を及ぼすものではない。その理由は、次のとおりである。
本件において、原審は、本件市財産の管理を怠ったことが違法であることを理由とする被上告人B2に対する損害賠償請求のうち、同人が地方自治法242条の2第1項4号所定の「当該職員」に該当するとして提起された右損害賠償請求(主位的請求)を不適法とする一方、右主位的請求と争点を共通にする予備的請求、すなわち、同人が同号所定の「怠る事実に係る相手方」に該当するとして提起された損害賠償請求につき、右争点についての十分な実体審理を遂げた上、右請求の当否についての認定判断をしていることが、記録上明らかである。そして、右のとおり、原審において、共通の争点について十分な審理が尽くされている本件においては、被上告人B2が同号所定の「当該職員」に該当するとして提起された右損害賠償請求(主位的請求)につき、更に原審において格別の審理判断を経なければならない実質上の必要性はなく、このような場合には、右請求に係る訴えを原審に差し戻すことなく、当審において原審のした右認定判断に基づいて、その請求の当否について直ちに判断することが許されるものと解するのが相当である(最高裁昭和43年(行ツ)第44号同49年9月2日第一小法廷判決・裁判集民事112号517頁、同昭和52年(行ツ)第12号同56年4月24日第二小法廷判決・民集35巻3号672頁、同昭和57年(行ツ)第128号同60年12月17日第三小法廷判決・民集39巻8号1821頁参照)。そして、後述のとおり、原審の右認定判断は正当として是認し得るものであり(上告理由第二三点についての判断参照)、右認定判断に徴すれば、被上告人B2が、本件市財産の管理につき、その管理権限を委任した所管の各課長に対する指揮監督上の義務に違反するなどの財務会計上の違法行為をしたものとはいえないから、被上告人B2が同法242条の2第1項4号所定の「当該職員」に該当するとして提起された右損害賠償請求もまた、理由のないものであることが明らかである。右によると、右損害賠償請求は理由がないものとして棄却すべきこととなるが、その結論は原判決よりも上告人らに不利益となり、民訴法396条、385条により、原判決を上告人らに不利益に変更することは許されないので、当裁判所は原判決の結論を維持して上告を棄却するにとどめるほかなく、結局、原判決の前示の違法は、その結論に影響を及ぼさないこととなる。論旨は採用することができない。


同第二三点について

原審の適法に確定した事実関係の下において、被上告人B2が、本件市財産の管理につき、その管理権限を委任した所管の各課長に対する指揮監督上の義務に違反するなどの財務会計上の違法行為をしたものとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は採用することができない。


同第二四点ないし第二七点、第二九点、第三一点ないし第三四点について

所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。右判断は、所論引用の判例に抵触するものではない。また、所論は、違憲をもいうが、独自の見解に基づき抽象的に原判決の不当をいうものにすぎない。論旨は、いずれも採用することができない。



よって、行政事件訴訟法7条、民訴法401条、95条、89条、93条に従い、裁判官園部逸夫の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。



裁判官園部逸夫の補足意見は、次のとおりである。
法廷意見は、本件忠魂碑について、本件移設・再建の前後を通じ、郷土出身の戦没者の慰霊、顕彰のために設けられた戦没者記念碑的性格のものであるとしているが、この点については、私は次のように考えているので、補足して意見を述べておきたい。
本件忠魂碑は、碑石及びその付属施設から成っているが、一般にこのような追悼のための施設等は、その大小、形状、材質又は付属施設の有無等を問わず、その前で、故人の追悼、慰霊等の行動や行事をする者の何らかの宗教的な感情の対象となるのであり、それは、単なる記念碑以上の宗教的存在としての性格を有するものとなり得るのであって、このことは、右の行動や行事が、特定の宗教の儀式によらない場合も同様であると考える。しかしながら、このような追悼のための施設等の性格を、それにかかわる者の感情に照らして、一義的に判断することは、困難であるのみならず、右の性格を明らかにすることが、憲法上の政教分離原則違反の有無を判断するための不可欠の要件であるとまではいえないのではないかと思う。したがって、本件についていえば、本件忠魂碑の性格いかんにかかわらず、箕面市が本件忠魂碑に関して既存の特定の宗教とどのようにかかわっているか、そのかかわり合いが、我が国の社会的、文化的諸条件に照らし、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものと認められるかという法廷意見の引用する各大法廷判決の判断基準によって判断をすることで足りると考えるのである。
     最高裁判所第三小法廷
         裁判長裁判官    貞   家   克   己
            裁判官    坂   上   壽   夫
            裁判官    園   部   逸   夫
            裁判官    佐   藤   庄 市 郎
            裁判官    可   部   恒   雄