行政学における機能概念
- Niklas Luhmann, Der Funktionsbegriff in der Verwaltungswissenschaft, Verwaltungsarchiv 49 (1958), S. 97-105.
概念というのは、正しいか正しくないかを論じるものではない。概念について論じることに何か意義があるとしたら、それは、その概念の使い方をちゃんと決めることであり、そうやって決めた使い方を貫いていくとどうなるかを明らかにすることである。その概念が出てきたときに、誰にでもすぐにその意味がわかるためには、論理的に正しく制御できる使用法というのが必要なのであって、そのためにはまずその使用法を決めておかなければならない。
さて、そこで機能[関数](Funktion)概念であるが、この概念には、論理学や数学で使われているのを除けば、上で述べたような意味での明確さがまったくない。特にひどいのが行政学である。用法がもうばらばらで、あるときには目的が、あるときには課題が、あるときには必要な手段が、あるときには存立前提が、すべて「機能」と呼ばれるし、学者の用法と、その対象である組織の中の人のあいだで使い方が違っていたりする。ある人は、機能とは抽象的な関係を指す概念だといい、別の人はいや現実の関係だという。いやいや関係それ自体を指すんじゃなくて、考えるべきなのは機能と行為その他との関係なんだと言い出す人までいる。なぜこんなにいろんなものが「機能」という一つの言葉で表現されてしまうのかといえば、ひとつにはこの概念が論理学や数学で使われているので、なんか専門用語っぽい感じがするからだし、もうひとつには昔にはなかった言葉だからなんか近代的でいいなあと感じるからである。要するに、響きがいいのだ。機能とさえ呼んでおけば、その対象がなんかかっこよくなったような気がするという文学的効果である。
ところが困ったことに、社会科学が数学から拝借しているのは言葉のかっこよさだけで、内容までは受け継げていないのだ。社会科学での機能概念は、もともとは生物学由来の機能概念を独自に発展させたもので、上位単位が存続するに必要な原因のことをいう。ここでいう上位単位としては、有機体、文化、社会、組織といったものが考えられる。
一般社会学の水準で Talcott Parsons が強調していることだが(1)、機能概念には、機能の宛先となる上位単位の決め方に応じて、二つの用法が可能である。同じことが行政学でもいえる。まず、「組織目標のシステム」を上位単位とすることにしよう。つまりここでは、上位単位となるのは組織のイデオロギーだ。さてこの場合には、この組織目標と、それを達成するのに必要な手段とのあいだの関係が、機能と呼ばれることになる。機能概念の用法としては、まあこれが普通だといっておいてよいだろう。これに対して、上位単位を組織の存立として概念化することもある。するとこちらの場合には、人々のあいだの協働が継続するために必要となる経験的な条件が、機能と呼ばれることになる。成員の意欲とか、組織内体制がどういうふうになっているかについての共通了解とか、良好な環境といったものが挙げられるだろう。最近こちらの方の用法を採用する人が多い(2)のは、そうすることでイデオロギーに縛られない自由な行政学が約束された気分になれるからだろうか。
- (1) Parsonsの著作に加えてMerton [1957]; Levy [1952]; Dahrendorf [1955] を参照せよ。
- (2) たとえばSelznick [1948]; Selznick [1949]; Gouldner [1955a: 24 ff.]; Gouldner [1955b] を参照せよ。組織の存続に対して意味があるということを、経験的に(!)実証しなければならないという問題があるのが、この理論の難しいところだ。
- (3) Nordsieck [1955: 36, 113] は、機能を、職務と人間との関係、と定義し、そう定義することで機能と職務を区別することができると考えている(Nordsieck [1955: 38])。しかし、これは形式的な区別を超えるものではない。
そのために必要なのは十分な抽象性だ。そして、その条件に合う機能[関数]概念をもっているのが、ほかならぬ論理学である。論理学者にいわせると、機能[関数]に固有の性質とはその多義性だという(4)。もちろんただの多義性ではなく、統制的な多義性だ。機能[関数]とは変数間の関係である。そして変数とは機能[関数]規則にしたがって互いに交換可能な代入値を表す記号のことである。それゆえ機能[関数]とはこれらの記号の間の関係のことである。機能[関数]「 x は青い」の x には、「空」、「海」、「スミレ」等々を、その機能[関数]の真理値を変更することなく代入することができる。他方、「爆発」や「美徳」を代入することはできない。何が代入値として許され、何が許されないかは、この機能[関数]が属する言語の意味論規則によって定められているわけだ。
- (4) たとえばRussell and Whitehead [1932: 57 ff.] がそのように述べている。この考え方を最初に定式化したのは Gottlob Frege で、彼は機能[関数]に独自な本質は補完の必要性だと述べている。Frege [1891]; Frege [1893: vol. 1, 5 ff.] を参照せよ。
だから機能[関数]というのは、具体的な存在者のすべての側面を完全に捉えきってしまうものではなく(5)、等価である、とか、交換可能である、といった判断を可能にする一面的な観点を設定するものにすぎない。それゆえ、機能の機能とは、パースペクティヴを一つ定め、それを参照点として、複数の可能性のあいだの交換を統制することだ、といえる。さて、以上の考察で、機能概念を、我々の目的に適した形で定義することができるようになった。こうだ。機能とは、y が、x (いわゆる変数)の等価性を判断するための観点(つまり変数 x を変数たらしめる観点)として働く場合に成立する、x から y への関係のことである(6)。この定義の x のところに「行為」を、y のところに「職務」を、それぞれ代入すれば、行政学の分野に応用することのできる機能概念ができあがる。
- (5) この点で機能[関数]は、目的論的決定論とは本質的に異なるのだが、残念ながら両者が混同されることは少なくない。最近ではJanne [1954] がこの混同を犯している。またBredemeier [1955]のように、機能分析を二つの類型に区別したところで十分ではない。目的論と機能主義とでは、考え方の前提が違うのである。目的論は、真の目的というものがあって、何が起こるかはこの目的によって決まっている、という前提を置いている。しかし、近代的な解釈では、真理というのは間主観的な確実性のことだと考えるので、そうなると、もはや真の目的などといったものを想定することはできない。そこで、用済みとなった目的論にかわって登場したのが、機能概念なのである。機能は物事を決定するものではなく、異なる可能性の間の等価性を統制するだけである。存在しているからにはそれは不可避である、などという言い方は、もう通用しないのである。
- (6) x が y の機能[関数]であり、かつ y が x の機能[関数]であるような、機能[関数]方程式のより複雑な事例(反転可能ないし対称的な関係)については、ここでは論じない。行為(=非対称的な因果関係)を対象とする行政学にとっては、そうした事例はとりあえずあまり意味がないと考えられるからである。ただし Simon [1957: 10 ff.] は、必ずしもそうとは言い切れないことを示す興味深い考察を展開している。
- (7) 「(A. Churchの定義によれば)『機能[関数]』とは、所与の物事に適用することで新しい物事を獲得するという性能を持った演算である」(Kattsoff [1948 :137])。
- (8) この点についてはCassirer [1910]を参照せよ。
実は、近代の官僚制的行政機構は、このような機能的思考法に基づいて編成されている。また同じ思考法が、行政機構によって統治される社会的秩序に対しても適用されている。つまり、行政の領域では、行為をその機能によって同定することになっているということだ。その際に参照される上位単位には、先ほど見たように二つの種類がある。一つは、行為を、その行為によって達成されるべき職務という観点から捉える考え方で、その場合にはイデオロギーが参照単位となる。もう一つは、その行為が協働の継続に対して与える結果という観点から捉える考え方で、その場合には組織の存立が参照単位となる(9)。たとえば、公務員の「秘書」設置について機能的に考えてみよう。一方では、その職務は女性秘書に担当させるよりも中央の文書課のような他の部署の方がうまく処理できるのではないか、という観点から考えることができる。他方、組織の存立という観点からは、公務員の威信を支えるのに別の手段はないものか、地位の高さを象徴するのに別の方法はないものか、という方向で考えることもできる(10)。どのパースペクティヴを選択するかによって、その行為に対して何が等価であるかが変わってくる。つまり、設定されるパースペクティヴごとに、別の比較可能性、代入可能性が与えられることになるのだ。これは、秘書というものが持つ様々な側面のうち、どれが有意でありどれが有意でないかが、選択されるパースペクティヴによって異なってくるからである。
- (9) 両者の相違と、この相違が引き起こす緊張関係については、特にSelznick [1949] を参照せよ。また一般的な議論としては、Parsons and Shils (eds.) [1951: 173 ff.] を参照せよ。この区別は公式構造の水準での区別であり、行為者の意識度の差による顕在機能と潜在機能の区別と混同してはならない。たしかに、多くの場合イデオロギーは意識されているのに対して、行為が組織の存立に対してどのような結果を及ぼすかについては、行為者には気づかれていないことが少なくない。この二つの区別が容易に混同されてしまうのはそのためである。
- (10) この後者の観点が「許容される変項」でないという人は、前者の観点をイデオロギー的に称揚しているだけである。
人間はあらゆる機能化に先んじて、つねにすでに、いわば前国家的な社会的秩序の中で他人とともに生きている。人間は、他人に対して類型的な行動を期待したり、他人から期待される社会的役割を引き受けたり、相手が自分の期待に反したときには否定的な反応をしたりする。これらの期待は、合意、伝統、ステレオタイプ、事実連関によって強化され、強化された期待については逸脱行動に対して制裁を下す権利が与えられる。他方で、他人の期待に沿った行動をとった場合には、社会的な共感が増強され、独自の規範や慣習と、成員のあいだの非公式な序列関係をゆうする集団が形成されることになる。
この非計画的で「自然」な行動秩序は、人間の共同生活を魔術的に解釈する際にも、あるいは宗教的に解釈する際にも、そして機能的に解釈する際にも、つねに自明なものとして前提されている。物事の見方や考え方からすればとても自然とは思えないような行政官の共同生活も、実はこの基礎の上に成り立っているのであり、そういう基礎秩序がなければ考えることさえできない。役所というのは結局は役割の複合体なのだが、そこに見られる公職のハイアラーキーというのは、どんな集団にも存在する非公式の上下関係を模写したものにほかならない。命令権というのは、人格に基づく威信を安定化し、補完するもの、あるいはそれに代わるものである。規則は、行動期待が固定化したものとして体験され、遵守される。また、厳密に「職務」上の行動とは別に、機能化されていない無数の体験可能性への脱線が、つねに存在する。たとえば窓の外を見たり、無駄口を叩いたり、メモ用紙に落書きをしたり、といった具合に。
この話は、すべての「公式組織」は「非公式組織」に支えられていて、その影響である程度歪んだものとなるという、産業研究の知見に近いところまで来ている。ここで大切なのは、非公式組織それ自体は機能主義的に基礎づけられるものではないということ、そして、非公式組織を公式組織の意図せざる副産物と捉えたり、あるいは心理学的(したがって機能的)な協働計画によって管理すべき領域としか捉えないとしたら、そうした把握は不十分だということだ。非公式組織というのは、産業研究にとって、その意味を独自に追究し解明すべき、れっきとした研究対象なのである。公式的な官僚制組織について明らかにするためには、そこでつねに前提となっている相互的な行動期待の秩序を考慮に入れ、この秩序を概念化してやる必要があるのだ。
行為の意味を機能的に定める、というのは、官僚制組織の本質的な原理、さらには決定的な原理だといえるだろう。ところがこれ自体がやはり、(意味を定める際の参照枠として)前機能的な行動秩序を前提とする。この前機能的な行動秩序では、自分の行為も、他人に対して期待する行動も、一つの目標を頂点とする直観的なひとまとまりの行動として現れてくる。今日一日どんなことがあったか、どのように過ごしたのかを知るのに、自分が行ったすべての行為を原因と結果(手段と目的)に分割する必要はない。
これに対して、行為を目的と切り離し、その目的を結果として実現するための原因が行為であるという捉え方は、二次的な(そして近代に特有の)解釈である(11)。この解釈には特に、ひとまとまりとしてある生活過程を原因と結果に分解し、前者を手段、後者を目的、とすることで、両者を、互いに他に対して不変項として定めるという意味がある。これによって、原因と結果を互いに他から独立に変更することが可能になる。目的を一つ定めた場合、それを実現するための手段としては、機能的に等価な行為が複数存在しうる。他方、行為を一つ定めた場合には、それを正当化しうる目的は複数存在しうるのだ。
- (11) このように述べているものとして特にTönnies [1923] を参照せよ。John Dewey は、ほとんどすべての著作(特にDewey [1922])でこの点を指摘している。
- (12) こういうややこしい議論を挿入するのは私としても遺憾なのだが、数学的自然科学では因果性が機能[関数]方程式として、それゆえつねに対称的関係として記述されている現状があるため、仕方なく挿入した。機能[関数]、因果、対称性の結びつきは、科学性を追求する社会科学者の思考を強く規定しているため、機能図式が非対称関係にあることは、ことさらにでも示しておく必要があるのだ。
これは、もう仕事というものを、一つのまとまりをもった全体として考えることができなくなるからだ。各人それぞれの作業が、それぞれ部分的な原因となって、それらがすべて合わさって一つの結果が出る。仕事というのはその結果でしかない。そういう解釈しか許されないのだ。もちろん、労働の意味が、仕事のひとまとまりの完成体から得られるものであった時代というのもあった。そういう時代には、労働の意味は機能拡散的で(13)、代々受け継がれる伝統的な役割類型と不可分のものだった。労働と仕事は一つのものであり、直観的な役割像(父親、医者、聖職者、農民、など)にしたがった伝統的な役割分担ができていたのだ。この体制を唯一解体することができたのが、機能分析なのである。機能分析は、実現する価値のある結果を一つ定め、それに対して機能特定的に役割を定義する。そうやって定義された役割は、機能的に等価な別のものと比較したり、あるいは組み合わせたりすることができるようになっている。こうなると、役割の意味というのは、大規模な労働連関の中であらかじめ定められ、個別に交換可能な部分的貢献ということにつきてしまう。しかしこの機能的抽象を行わないかぎり、十分な規模の代入行為・補完行為の可能性の全域を視野に収めることは不可能であり、それゆえ、きわめて多様で詳細な役割分業を必要とする大組織の編成には、この機能的抽象が不可欠なのだ。
- (13) 機能拡散的/機能特定的の区別はTalcott Parsonsによるものである。Parsons and Shils (eds.) [1951: esp. 57 f., 83 f., u. ö.]を参照せよ。
決定手続がこうなっていると、自分がたずさわっている作業の意味は、他の機能的に等価な行為の意味と変わらない、ということになる。各作業の固有性は、機能によって可能になる他の可能性との比較によってしか得られない。その機能に対する「働き」を評価されるわけだ。ところがこの評価は、あくまでも、行為をある結果を実現することのできる交換可能な原因の一つと解釈することによって成立する暫定的な図式の中でしか通用しない。この解釈のもとでは、行政行為はいわゆる形式的で非人格的な「官僚制」的様式をとる。個人的な感情や気まぐれな思いつきのような、そこでの機能にとって外的な成分は可能なかぎり排除することができるようになり、それゆえ行政行為は計算可能、反復可能になる。形式性にしろ、非人格性にしろ、計算可能性や反復可能性にしろ、Max Weber以来なんども繰り返し指摘されてきた官僚制的行政に固有の特徴であるが、これらは基本的に機能法則にしたがった交換可能性のことを言っているのであり、それゆえいずれも行為を機能的に同定することの副産物なのだから、そのかぎりで、これらの特性は、相互に連関しているといえるのだ。
官僚制的行政とその環境との接し方についても、この固有の機能法則に対応したものとなっている。この世界で起こる出来事というのは、その一つ一つが固有なもので、同じ現象は二つと起こらない。ところが行政は、その出来事について報告を受けると、あらかじめ定められている規則にしたがって、同じ仕方で処理すべき案件へと分類してしまう。ただし、ここでいう案件の同一性は、やはり直観的・質的な同一性ではない。案件は自然法にしたがって本質を与えられるのではなく、機能的に同定されるのだ。同じように処理されるべき対象だから同一なのであって、同一だから同じように処理されるのではないのだ。対象の側の視点からいえば、機能主義というのは、行政活動がルーティン化され、迅速に遂行され、予見可能であるための条件なのである。
以上のように、官僚制的行政は機能主義をとっており、何かと何かを等価であると判断し、等価なものどうしをその働きにおいて比較するような体制になっている。最後に指摘しておきたいのは、このとき、そういった判断や比較のために必要な観点の実定性(被定性)こそが、官僚制的行政の、そして機能主義一般にとっての前提だということだ。この観点に求められるのは、あらかじめ定められていること、そしてその正当化は機能的思考の内部で行われなければならないということである。つまり、機能的観点は、比較領域を構造化するという機能によってしか正当化されえないのだ。機能はつねに何らかの「上位単位」を前提とするわけだが、これはそれ自体が明証的であるとか、いわんや真である必要はない。上位単位の評価は、それが示す秩序化の働きによってなされるからだ(14)。近代国家では、公的な事柄を機能的に秩序化するのに、真なる国家目的を持ち出してきたりはしない(15)。イデオロギーで十分だからだ。
- (14) この考え方は、近代論理学でも採用されている。近代論理学の基礎概念は「暗黙に定義」されるものであり、無矛盾な演繹を可能にするという機能によってのみ基礎づけられることになっている。
- (15) それに、Hans Kelsen(Kelsen [1928: 83])の慧眼が見抜いていたように、国家目的は国家主権と矛盾する。近代的な考え方では、主権というのは絶対的機能主義の公準なのである。
機能というものを、その概念内容だけでなく、歴史的にも理解しようと思ったら、機能によって変形させられた秩序とはどんなものだったのか、という観点から考える必要がある。機能は、本質とか固有性といったものによって実体的に同定されていた事物を、機能的に同定しなおす。つまり現象から、その元来の意味や形を奪うのだ。これによって、公的生活のあり方は、全面的に変化することになる。儀礼や儀式のような定型的な動作によって所属意識が弱まったり強まったりするということはなくなり、祭事は季節を区切るための輝きを失う。人が生まれ、成長し、死んでゆく、そのあり方を定めていた古い形式は消え去っていく。助け合いの精神は公的生活から私的生活へと撤退し、そこが唯一、社会的共感の表明が求められる場となる。英雄も道化も、王も乞食も、例外的な役割としての力を失って死に絶え、悪党すら、近代の行政には登場してこない(もちろん前近代的な要素を多く残した政体にはまだ悪党がいるが)。その代わり、行為や制度はそれらが果たす働きの連関の中で、その機能に関して代替可能なものとして捉えられる。そのため、同じ働きをするものが非常に多く見つかることになり、その結果、最善の可能性を見つけて実行することがつねに保証されている。このように、機能は自然に存在していた区別を無化し、人為的で機能特定的な区別に置き換えるのだ。そしてそのような体制が支配的になることで、専門家は不要になる。
行為を機能的に同定するということは、行為を特定の一側面からのみ捉えるということだから、その結果、個人の生活の自足性と、社会的秩序の調和性が脅かされることになる。これは、旧来の儀式中心の体制では起こりえなかったことだ。そこで、それを埋めるための補償が必要になってくる。つまり、労働、生活必需品、社会的地位、成功の機会、信じるに足る意味といったものを、計画的に供給することが求められるようになる。ところが、そうした補償の必要性自体が、機能的に同定され、組織によって充足されることになる(というか、補償の必要性を同定するというのは、それを機能的に同定するということでしかありえない)。こうして社会的秩序は緊張を緩和され、存立が保たれる。ただし、そのためには大規模な行政が不可欠である。
行政学は、このような歴史的状況を認識した上で、それを受け容れなければならない。それが近代国家の前提である以上、近代国家を対象とする行政にとっても、この歴史的状況は前提なのだ。行政学が研究すべき事柄というのは、最大限広くとって言うなら、公的生活の秩序に対して、機能思考がどんな影響を及ぼしているかということだ。この研究課題に応えるには、機能的に同定するということがどういうことなのかを理解している必要がある。この点が理解できていないと、学問としての射程と限界を見定めることができないからだ。類型的で反復可能な状況を見つけたら、そこで自然的世界が機能的な指向によってどのように再構造化されているかを調べてみること。それが行政学の課題である。そうすれば、その再構造化によって何が得られ何が失われているのか、生活や社会的関係がどのような変化を被っているのかを知ることができる。そうした研究成果が蓄積し、近代国家の現実についての内容的・歴史的な認識が確立したとき、そのときはじめて、我々は機能の機能の先にまで進み、まだ見ぬ機能の本質を問うことができるのだ。
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