人文総合演習B 第4回 福井健策『著作権の世紀』

著作権の世紀 ――変わる「情報の独占制度」 (集英社新書)

著作権の世紀 ――変わる「情報の独占制度」 (集英社新書)

何かの「権利」を保護するかどうか、またどのように保護するか、について議論するときは、少なくとも次の二つを区別しておく必要があります。つまり、その権利自体が大切だから保護するのか、それとも、別の大切なものを守るのにその権利を保護することが有効だから保護するのか、の二つの立場です。
その権利自体が大切だ、というふうに考えるのであれば、いかにその権利が大切なものであるのかを、議論相手の道徳的直観に訴えるように論じるのが基本になるでしょう。生きる権利とかそうですよね。
他方で、他に大切なものがあって、それを保護したり促進するのに、ある種の人にある種の権利を付与することが有効である、というふうに考えるのであれば、議論をいくつかの段階に分ける必要があります。議論は目的/手段図式で構成され、権利の保護は、何らかの目的を達成するための手段、という位置づけになります。
そこで、論点としては、権利を保護することによって達成されるべき目的とは何か、なぜそれが目的として設定されるべきなのか、どういうことが起こったらその目的が達成されたと言えるのか、その目的以外の大切なもの(他の権利とか)との兼ね合いをどうするか、その目的を達成するのにその権利付与のありかたが手段として有効かどうか、もっと有効な手段はないのか、権利を定めた時点からの時代変化によって、目的設定の観念に見直しをかける必要はないか、といったことが出てくるでしょう。
さて、こういう原理的な議論をするときは、既存の法律に縛られる必要はありませんが、とりあえず著作権法をみると、その目的は「文化の発展に寄与すること」と書いてあり、また報告者・コメンテータもこの路線で考えていたように思います。
となると、「文化」とはなんなのか、それが「発展」するとはどういうことなのか、なぜ「文化の発展」が大切なのか、「文化の発展」に優るとも劣らないくらい大切な他の権利や目的はないのか、あったらその兼ね合いをどうするのか、といったことを考える必要が出てきます。
また、著作者に著作物の複製や公衆送信の権利を「専有」させることが、達成すべき「文化の発展」とどのような筋道でリンクすることになるのか、「専有」させないことによって発展する文化というのもあるのではないか(二次創作の話とかそうですよね)、となると再び文化論に戻って、発展すべき文化と発展すべきとまではいえない文化のあいだに区別があるのかないのか、みたいな感じで、各論点について考えていくことが、すでに考えた論点についての再考を迫るといったループも生じてきますね。
レジュメおよび演習での議論は、これら(本来は論理的に相互に結びついている)様々な論点が、ある面では渾然一体となっていたり、ある面では表面的にのみ扱われていたり、といった事情のために、どうしても隔靴掻痒感が否めませんでした。これは、まあ、初年度としては当たり前のことですし、その感覚を体験してもらうことが演習の目的でもあります。うまくいかなさの体験がなければ、「形式」を学んだときの利得も少ないものです。
ああ、またしても長くなりすぎているのでこのくらいに。
 
以下、レスポンスカードより。

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2010年10月27日のツイート