John Patrick Shanley監督『Doubt』(邦題:ダウト〜あるカトリック学校で〜)

ダウト ~あるカトリック学校で~ [Blu-ray]

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全寮制のカトリック学校で夜な夜な繰り広げられる殺戮の宴!――みたいなのを想像してたら、全然違って、なんだフリン神父の不倫(というか性的児童虐待)と厳格なシスターによる追及・告発の話か――と思ったらそれも違った。
この映画を紹介したり批評したりする文章の多くが、Father Flynnに対する疑念、という形でタイトルを解釈しているが、それは完全に間違い。Sister Aloysiusは「疑念」なんか抱いていない。彼女はほぼ全編にわたって(少なくとも表面上は)「確信」しているのである。
この映画において「疑念」は、最後の最後で、Sister Aloysiusの感情の爆発とともに表出される。それは、何よりもまず自分の確信に対する疑念である。Father Flynnに自白させようと嘘を吐いた。嘘を吐くのは悪いことだが、もっと悪い行いを止めようとすればそちらに一歩踏み出さねばならず、神から一歩遠ざからねばならない。その自己正当化は、Father Flynnはペドフィリアだという確信にこそ支えられていた。ところがFather Flynnの弁明を聞き、また「被害者」の母親の話を聞くうちに、実はSister Aloysiusは自分の確信が揺らぐのを感じていたはずなのだ。そのあとの、Father Flynnとの一騎打ちでのMeryl Streepの鬼気迫る演技は、自分の確信を立て直し、油断すると表面化しそうになる「疑念」を押しとどめるための、Sister Aloysiusの自分自身に対する演技でもあったはずだ。
真相は最後まで明らかにされないし、物事の成り行きだけを見れば、厳格なシスターが、表面はいい人っぽいが裏ではペド野郎の神父を追放することに成功した話なのだが、映画が終わっても、いったい自分は何を見せられたのだろうという思いを禁じ得ない。
そう思って、いろんなシーンを思い出してみると、そもそも伝統あるカトリック学校で唯一初めての黒人生徒、しかも母親の話だと同性愛的傾向があるらしく、かつそのことで父親から虐待を受けていること。神父は聖書に押し花の栞をするような繊細な面を持っていること。神父の「君には想像もできないような世界があるんだ」という台詞(同性愛に対する差別と、隠して生きていかねばならない苦しみのことだろう)。でも結局、真相がわかることはない。にもかかわらず、もう一度観て、各シーンの意味を考え直したくなる。そして、神から一歩踏み出してとどめようとした悪行が存在しなかったかもしれないという不安、ただ自分が悪行をなしただけにすぎないのではないかという疑念、Sister Aloysiusの最後の涙の意味を、また考えたくなる。そんなすばらしい映画。