ホルスター「社会の道徳」

承前 http://d.hatena.ne.jp/takemita/20070606/p1

来年ルーマンの『社会の道徳』が刊行されるにあたって、編者のホルスター先生が2007年7月10日に同じ題名の報告をしたそうな。サイトに原稿が上がっていたので翻訳してみる(途中)。(粗訳段階なので「である」が多い不格好な文章ですが。)

デートレフ・ホルスター
「社会の道徳」

1. 他の社会学者の議論の検討
2. 今日の社会
3. 象徴によって一般化したコミュニケイション媒体
4. サブシステムと道徳
5. 相互行為、組織、社会 ← いまここ
6. 二重偶然性と道徳の必要
7. 価値
8. システム理論のサブ理論としての倫理学

1. 他の社会学者の議論の検討

 ある社会の中で、道徳がどんな機能を担っているか。社会学者はこういう問いの立て方をする。これは哲学者には馴染みの薄い発想である。哲学者は、道徳とは何であるかという問いに正面から取り組むのを仕事にしているからである。さてルーマンは上の問いに回答を与えるにあたって、まず、やはり道徳について論じている他の社会学者の議論を検討している。その批判の俎上に載せられるのは、たとえばエミール・デュルケムである。ルーマンの見立てでは、デュルケムは道徳を概念化するにあたって、自分自身が一人の道徳家となって、社会に価値を付与してしまっている(1977, 28を参照)。社会学者の仕事は社会を分析することであって、社会を評価することではない。デュルケムの議論だと、道徳というのは社会がばらばらにならないようにくっつけておくための接着剤だということになる(1977, 29を参照)。しかし、「近代社会についていえば、道徳による統合はもはや不可能である」ことに気付かないといけない。そうルーマンは述べる(1990a, 40; 1993a, 31も参照)。ところがデュルケムは自分の見解に固執するあまり、たとえば協調行動と逸脱行動の分離といった社会学的に重要な意味をもった事態を見逃してしまう(1977, 29および1975, 12)。道徳が社会の接着剤なのだとしたら、いったい逸脱者はどこに行けばいいのだろう。これこそ社会学者の問いである。人は逸脱した途端に社会の成員ではなくなってしまうとでもいうのだろうか。社会学者としてはそんな考え方は到底できない。逸脱者もまた、社会の維持に貢献しているからである。つまり、問題として貢献しているのである(1989, 367を参照)。デュルケムのように社会を評価したいという人には、こういう逸脱者によっても維持されている社会を道徳的に評価するということが、いったいどうやったらできるのか、そこを聞きたい。そういう社会について、善いとか悪いとか、あるいはどちらかというと善いとかどちらかというと悪い、といったことが果たしていえるのだろうか。いずれにしても、社会を道徳的に評価しようとする限り、社会学的分析の進展は到底望めないのである。
 さらにいうと、デュルケムのように考えたのでは、サブシステムでは象徴によって一般化したコミュニケイション媒体が、道徳の代わりに統制機能を果たしているという事実も、制度や組織では相互行為のとは異なった統制メカニズムが働いているという事実も、見過ごされてしまう。さて、これらデュルケムと同じ過ちを犯すことなく、今日の社会における道徳の機能を明らかにするために、いくつかの分化についてルーマンの所説を確認しよう。この分化というのはルーマン社会理論に不可欠の要素であり、ルーマンのシステム理論に親しんでいる人にとっては、特に新しくもないお馴染みの議論である。

2. 今日の社会

 まずは、今日の機能分化社会を、かつての階層分化社会と区別する必要がある。デュルケムの場合、まだ階層分化社会を想定していた。これは身体モデルに従って構造化した社会で、政治が、身体の他の部分を操縦する頭脳の役割を果たすと考えられていた(1986, 167を参照)。これに対してルーマンの分析だと、今日の社会というのは、経済システム、保健システム、政治システム、教育システム、意識システム、その他様々なシステムが並立してつくられる一つの複合体である。あるシステムが別のシステムよりも上位に来るということはなく、政治システムもまた例外ではない。家族であれ、学校であれ、大学の研究所であれ、ほとんどすべての社会的現象について、それをシステムとして記述することが可能である。システム理論は「システムが存在するということから出発する」のである(1984, 30)。これは、誤解されているように、「システムが存在する」と言っているわけではない。「システム理論は、他の社会学理論とは違って、システムが存在するということから出発する」と言っているのである。その結果、ルーマンは社会の道徳というものを、他の社会学者とは違った仕方で眺めるのである。
 他方、道徳というものは、上記の機能システムや、社会を構成するその他のサブシステムの中のどれか一つに含まれるわけではないし、また道徳それ自体が一つのシステムをつくっているわけでもない。「道徳は社会のどこでも通用するコミュニケイション様式である。道徳が一つの部分システムとして分出するとか、道徳を特定の機能システムが取り込んでしまって、そのシステムの内部では道徳的コミュニケイションが可能だがその外部では不可能、といったことはありえない」(1989, 434; また1978, 58も参照せよ。)この箇所でルーマンは、社会のサブシステムの中で行われるコミュニケイションは、サブシステムごとに固有のコード化に従って行われる旨、明記している。ところが、善/悪という道徳コードはそのどれとも異なる。機能システムと道徳の間には断絶があるのである。これは機能分化に加えてルーマンが注目するもう一つの分化である。その意味するところについて説明するのが、以下の議論の課題である。

3. 象徴として一般化したコミュニケイション媒体

 各システムの内部で、道徳の機能的等価物として働いているのは何か。これがニクラス・ルーマンの立てた問いである。この機能的等価物はシステムごとに異なるのであるが、ルーマンはそれらを総称して、象徴として一般化したコミュニケイション媒体と呼んでいる。「コミュニケイション媒体」という概念は、もう一人の大社会学者、タルコット・パーソンズの理論に由来するものである。パーソンズが言うコミュニケイション媒体というのは、異なる二人の行為者の間の相互行為を調整するのに適した意味内容、という意味である。二人の行為者がともに参照する同一の象徴のことである。象徴(Symbol)の語源であるギリシャ語のシュンボロン(Symbolon)は、文字通りにいうと「投げ集める」とか「継ぎ合わせる」という意味の言葉であった。ギリシャでシュンボロンと呼ばれていたのは、硬貨を二つに割った割符であり、自分の持っている割符と相手の持っている割符がぴったり合わさるかどうかで、相手がもてなすべき客であるかどうかを判断したり、また客であることの証明としてこの割符を渡したりした。客としてもてなすということが、自分と相手の間で共有された価値であり、この価値を割符が象徴し、それを参照することで両者の行為を調整することが可能になっていたわけだ。「象徴は、既知のものと未知のものが既知のものの中で連関していることを表す記号として働く」(1990b, 189)のである。他方、パーソンズが「一般化」というのは、この象徴作用が、非常に様々な状況に適用されるという意味である。つまりこの種の象徴は一回しか使えないものではなくて、まさしく一般化しているのである。
 象徴として一般化したコミュニケイション媒体は、各システムの内部で、コミュニケイションを維持する働きをする。つまりコミュニケイションがスムーズに続いていくのに役立つ。サブシステムの内部でコミュニケイションが停滞しないようにするのである。この機能はどうやって果たされているのだろうか。その鍵は、条件付けと動機付けの間の連関にある。一定の条件が習慣的に与えられる場合、コミュニケイションを受容しようという動機付けが生まれ、それによってコミュニケイションの存続が保証されるのである。一つ例をあげよう。我々が貨幣を受け取るのは、それをまた使うことができるからである。たとえば雇用者に給料は全部現物支給にしろと言ったり、日曜大工で作ったテーブルを譲ってもらおうと歯磨き粉のチューブを32本持参したりすることはできない。我々の社会には貨幣が滞りなく循環するための条件が成立していて、誰もがそのことを知っており、だから受け取った貨幣をまた別の機会に使うことができる。だからこそ、我々は自分の労働の代価として貨幣を受け取ろうという気になる。これが、経済システムの内部で貨幣を媒体としたコミュニケイションを維持することの条件であり、また動機になるのである。
 もう一つ例を出そう。経済における貨幣と並んで、科学における真理もまた、象徴として一般化したコミュニケイション媒体である。研究の成果というものは、その研究が正しい方法に従ってなされている場合ならば、どんなものでも成果として認められる。たとえば地球は球体である、という日常実践の中では知覚も検証もできないような、したがって日常的な理解からはとても信じられないような結論が出されたとしても、科学的コミュニケイションはとどまることなく続いていく。「真理は(他の象徴として一般化した媒体と同じく)世界構築の媒体であって、特定の目的に特化した手段のごときものではない。ある情報について、その選択性が、その情報をもたらした人に発するのでない場合に、この情報のことを真理という。(中略)ある発言に含まれる真理内容を、そのコミュニケイションに参加する一人の人間の意志や利益に還元することはできない。その人が意志したから、それがその人の利益になるから、だから真理なのだということにしてしまうと、真理というのはその人以外には通用しないものになってしまう」(1997, 339 f.)ある人の個人的な体験、例えばテレパシー体験に還元されてしまうような恣意的な情報は、科学においてはコミュニケイションの中断や断絶を引き起こしうる攪乱なのである。「結局、「俺はそれが真理であってほしい、だからそれは真理だ」とか「俺はそれが真理だと提案する、だからそれは真理だ」などといった言い方は許されないのである」(1990b, 221)。真理であるためには美しくないといけないか。そんなことはない。認められた研究方法によって生み出された情報、そしてその限りで真理であるだけが、科学システムにおいてコミュニケイションが継続するための基礎として働くのである。
 象徴として一般化したコミュニケイション媒体の例示は、このくらいで十分だろう。例をあげて論じたのは、これらの媒体は道徳的観点を中立化しうるものである、ということを示すためだった。サブシステムの内部でコミュニケイションを維持するのに、道徳的な動機付けは不要なのである。芸術においても、16世紀後半に、美しいかどうかの判断が、徐々に道徳的評価から分離していくという展開があった(1995a, 117)。それまでは、美と道徳は一つだった。両者は固く結びついていた。真理と道徳も同様に互いに固く結びついていた。アウグスティヌスは、人間をつくった人間は道徳的に優れた人間であるという命題を真理だと考えた(De Trinitate IX, 6, 1を参照)。これに対して今日では、道徳的に優れた人間ではないが物理学者としては優れているというあり方が可能であり、かつそれが必ずしも悪いことだとは考えられない。媒体構造の議論を突き詰めるなら、道徳というのは様々なシステムで用いられる一般的な媒体であって、もはや唯一の媒体ではないということになるだろう。なぜなら、道徳以外にも、様々な媒体が存在するからである。

4. サブシステムと道徳

 以上の議論からは、ではサブシステムと道徳の間には何の関係もないのか、という疑問が出てくるだろう。ニクラス・ルーマンはこの点について明確に論じている。政治家は、有権者が誰に投票するかを道徳的観点から決めるだろうと考えていたとしても、自分の行動を道徳的観点から決めたりはしない(1993a, 36を参照せよ)。政治家の意思決定というものは、各所に依存して決められるものであるため、道徳的観点だけに従った決定など不可能なのである(1993a, 37)。だからこそ、「道徳のコードと政治のコードの構造的な乖離」(1993a, 37)が観察されるのである。ところが、サブシステムが道徳に依拠しているということもまた事実である。不公正な政治家は望ましくないと我々は思っている。なぜなら、競争が公正でない民主主義など民主主義ではないからである。利益を不当に得た人は、いつ発覚するかとずっと冷や冷やし続けなければならなくなるのである。またスポーツについても、ドーピングは好ましくないと思う。これも、勝敗はスポーツマンシップにのっとった仕方で決まるべきだと考えているからである(1993a, 38を参照)。ところで、ツールドフランスを七連覇したランス・アームストロングは偉大なスポーツ選手だったのか、それとも詐欺師だったのか。なぜそんなことが気になるかといえば、どちらだったかを知ることで、スポーツへの関心を今後も維持していくことができるかどうかが決まるからである。では科学はどうか。最近、韓国の幹細胞学者、黄禹錫による研究結果の捏造が発覚し、世界中から非難を受けた。黄の捏造によって、近い将来、欠落した身体機能の再生が可能になり、パーキンソン病、糖尿病、卒中、アルツハイマー病の患者たちが治療を受けられるようになるかもしれない、とみんな期待したからである。「スポーツ、科学、政治を互いに比較することで、各機能システムが非常に特定的な形で道徳に依存していることがわかった」(1993a, 39)のである。ルーマンはここで、社会のサブシステムと道徳との間に連関が存在することを示しつつ、しかし両者の間には対立もまた存在するということを明らかにしているのである。
 ルーマンの考えでは、道徳がシステムを刺戟することは可能である。しかしそれによってシステムが道徳的観点から見て望ましい状態に変わるかどうかは、これはまた別の問題である。たとえば道徳的な動機に発したシェル石油のガソリンスタンドに対する不買運動は、経済システムに対して、海上石油プラットフォームのブレントスパーが海中に沈められないという結果をもたらした(1995bを参照)。日常道徳は、象徴として一般化したコミュニケイション媒体を用いて正常に作動している部分システムに対して、これを不安定化し、認知的な刺戟を与えるばかりでなく、社会の部分システムの作動を決めてしまうこともあるのである。ただしこれは、まず刺戟を与え、その後で作動を決定するということではない。たとえば医療改革に対する抵抗運動は、たしかに政治システムに対する刺戟となった。しかしそれは結局、抵抗運動に対する政治家たちの見解の表明を促しただけだった。医療改革はそのまま施行されたのであり、つまりこの事例において、抵抗運動は刺戟にはなったが、政治システムの作動を決定することはなかったのである。

5. 相互行為、組織、社会

 道徳の果たす機能とは何か、という問いを考える前に、デュルケムが思いもよらなかったもう一つの分化というものについて論じておきたい。機能分化社会では、前節で論じた各サブシステムのそれぞれが、さらに様々な組織に分かれている。ルーマンは社会と組織と相互行為を区別している(1975を参照)。社会はコミュニケイションからできている。コミュニケイションが存在するところには必ず社会も存在している。これに対して相互行為というのは「社会が実行される際の挿話」(1984, 553)である。相互行為はそのつど使い捨てにされ、また新たに始められなければならない(1984, 588)。コミュニケイションはつねに生じており、したがって社会もまたつねに成立している。つまり社会には始まりというものがない。ルーマンはある講演で、常時世界の人口の三分の一は眠っていて相互行為ができない状態にある、と述べたことがある。人間が眠っていて相互行為していない間にも、社会は存続しているのである。だからこそ、相互行為を縛る規則というものが重要になってくる。新しく始まる相互行為がそのつど既存の規則体系を参照することができる必要があるからである。それが道徳である。他方、組織や制度は、また別の規則体系に従って作動している。
 現代社会は、独裁君主が自分の考えに従ってすべてを決めるというやり方の通用しなくった高度に複雑な社会である。組織は、この現代社会の中で生まれた。人口が増大する中で、決定の結果がその誰にとっても同じでなければならず、また平等な扱いが求められる社会である。これは法的な側面であるが、それを完全に度外視しても、不平等な扱いをするということは道徳的な観点から見ても侮辱に当たるわけである。
 機能的な観点からいうと、組織化の十分に進んだシステムは、より高度の複雑性に耐える能力を持つため、複雑性を増大させることによって複雑性を縮減することができるようになる。各組織にそれぞれの課題とその充足が割り当てられることで、社会的システムの見通しが良くなるのである。また組織によってコミュニケイションの速度が上がるという面もある。組織の中では「コミュニケイション過程は(中略)自らの前提を確認する手間をかけずに済む。それはすでに決まっているからだ」(1969a, 396)。組織の中では、すでに決定がなされているがゆえに決定がなされるのである。組織という言葉を、それ以外の秩序とは異なる独自の社会的集団を指すものとして用いる用語法は、19世紀を通じて確立されたものである。その後、組織は社会にとってなくてはならないものになっていき、強大な影響力を持つようになった(注)。
 組織は独自の構造を持っている。ルーマンが構造というのは、期待や、期待についての期待の間の網状連関が固定したものに他ならない。構造についても、組織や制度の構造と相互行為の構造の間には違いがある。
 たとえば、婚約というのは一つの制度である(1969b, 34を参照)。婚約は一定の儀式に従ってなされるものであり、それが期待される。たとえば花嫁の父親に娘さんを下さいとお願いに行き、指輪を交換し、結婚の約束をし、その約束を守る、といったことが期待される。晩婚ということも期待に含まれるだろうが、戸籍係が「死が二人を分かつまで」と言う段階に至って花婿が考え直すということは期待されない。婚礼前夜には、ガラスや鏡ではなく陶器を割って、それを結婚する二人が一緒に掃除するということが期待される。同様のことが、組織内での期待についてもいえる。どの程度期待が満たされたかということは、それぞれの行為において確認される。規則に従うこと、上司の指示に従うこと、決定プログラムに基づいて決定を行うこと、成員が勝手に決定してはいけないこと、が期待されるのである。「誰でもつねに、別様に行為することはできる。他人の望む通り期待する通りに行為してもいいし、そうしなくてもよい。しかしそうしない場合には、それは組織の成員としての行為ではなくなる。」(1997, 829)論文「相互行為、組織、社会」では、次のように述べられている。「組織システムはすべての成員に対して、成員同士の対立はハイアラーキ的に処理し解決するように命じる。それを受け入れることが成員としての義務とされるのである」(1975, 18)。これに対して、道徳的な圧力を用いることも可能ではあるが、これは特定の条件下でしか成功しない(1975, 19)。あえて道徳に訴える場合は、その抗議をサブシステムに向けるよりは組織に向ける方が成功しやすい。たとえば経済というサブシステムを抗議の宛先とし、自分は経済というものに同意できないなどということはできないわけだ。そういう形での抗議は、相手に届かずに自分のところに返送されてしまうのである。これに対して、ある組織が行った具体的な決定に抗議することは可能である。そういうやり方なら、誰のどの行為に対して抗議しているかを明確に示すことができるからである。
(途中)