北田暁大『責任と正義』合評会レジュメ

責任と正義―リベラリズムの居場所

責任と正義―リベラリズムの居場所

この本の書評論文「『責任と正義』の論理」がもう少ししたら出る『書評ソシオロゴス』の2号に掲載されます。昨日校正済み原稿を提出したので、その記念に、この原稿の元になった合評会報告を以下に載せておきます。私がD2のときのものです(いまD5(泣))。2003年12月18日に、東大社会学研究室の言語研究会とロールズ研究会の共催で開いた著者臨席の合評会での報告です。なお、上記書評論文の内容は基本的に下記報告に基づいていますが、個々の論点の評価も含めた内容は同じではありませんし、そもそも論文の方は400字詰めで140枚もあります。あと、自分の未熟さについての自覚が口の悪さとして表れていますが、未熟な奴めと笑っていただければ幸いです。

1.行為の自己同一性は否定されていない

 北田はHabermasを批判することで、行為の自己同一性を前提とする理論を退けている。Habermas批判だけでそんなことを言い切ってしまっていいのだろうかという懸念はさておき、その理路を内在的に批判する。
 北田の議論は、(i)発語内行為と発語媒介行為の実体的区別を認めるなら、この二つの行為類型に分類される発話行為の自己同一性(つまり自然的単位性)を前提せざるをえないが、(ii)聞き手の了解による行為の事後遡及的成立を認めるなら、アコーディオン効果によって同一の発話行為が発語内行為であると同時に発語媒介行為である(統語論的構造をもつと同時にもたない)という矛盾が導かれる、というものである。この論理自体に間違いはないが、(i)についても(ii)についても前件を認めるべき根拠が薄弱と思われる。
 (i)について。当該引用箇所(p. 16)でHabermasは、発語媒介的効果をもたらす意図の有無によって、「相互行為」を、「コミュニケイション的行為」と「戦略的行為」に実体的に区別しているのであって、「発話行為」を「発語内行為」と「発語媒介行為」に区別しているのではない。コミュニケイション的行為には発語媒介行為(の意図)が含まれないが、戦略的行為には当然発語内行為と発語媒介行為(の意図)が混在しているはずである。だから自然的な同一性を必要とするのは「相互行為」であって「発話行為」ではない。この指摘だけで北田のHabermas批判は破綻する。
 ついでに指摘しておけば、発語内行為と発語媒介行為の実体的区別などという想定が、有意味に可能であるとはとても思えない。発語媒介行為でしかない発話行為というのは明白な語義矛盾であり、アコーディオン効果などもち出さなくてもそれ自体として破綻しているといえる。Habermasがそんな馬鹿なことを考えるわけがないと考えるのが合理的だろう。
 (ii)について。当該箇所(p. 11-12)で北田が示しえているのは、せいぜい「話し手の意図は聞き手に正しく伝わらない場合がある」というまったくもって自明な事実だけである。話し手の意図よりも聞き手の解釈を、理論家が優先的に採用すべき根拠については何も述べられていない。もちろん話し手の意図を優先すべき理由も存在しない可能性はあるが、だからといって意図による行為定義が不可能であるわけではない。ゆえに、「行為の事後遡及的成立」を自明の真理のように扱うべきではない。
 最後に、「行為」に対するルーマンの態度について言及しておきたい。私にはルーマンが行為の自同性を完全に否定しているとは思えない。彼が主張しているのは、
(1)社会的システムの要素は行為ではなくコミュニケイションである、
(2)コミュニケイションの中で「行為」として扱われるものはコミュニケイションの中で「行為」として構成される
という二点にすぎない。(1)は社会的なものが社会的なものを再生産するという社会的システムのオートポイエシスの論理にのせるには行為よりもコミュニケイションの方が好都合ということにすぎない(だからこそ彼は七〇年代末まで態度を決めかねていた)し、(2)はコミュニケイションの中で「単位」(Einheit)として扱われるものはコミュニケイションの中で「単位」として構成されるというルーマン構成主義の一般命題の行為への応用であり、コミュニケイションの中で扱われない「行為」については言及していない。というか北田のように「行為」・「行為者」の自同性をコミュニケイションの中での構成に委ねてしまうと、現実にコミュニケイションの中で取り上げられたものしか行為ではないという、きわめて反直観的な帰結が導かれてしまう。
 「コミュニケイションの中で扱われる行為」というのは要するに「行為記述」(の一種)であり、行為記述が事後遡及的になされるのは当然のことである。逆に行為記述は事後遡及的であればよいのであって、別に記述の「場」をコミュニケイションに限定する必要はない。反省(想起)能力をもった人は他人がいなくても自分や他人の行為を記述することができる。

2.「強い」責任理論は無である

(1) 責任理論の「強弱」は程度問題にすぎない

 (i) 構成主義というのは受け手中心主義のことであるが、「強い」責任理論は「歴史の実在論」を前提とするため、構成主義的責任論と外延を同じくするわけではない。これは責任理論の「強弱」が質的差異ではなく、程度問題にすぎないことを意味する。以下説明する。
 (ii) 受け手中心主義ということは、受け手による理解を絶対視することを意味する。すでに指摘したとおり、第一章での北田の議論は「行為の構成主義」ではなく「行為記述の構成主義」としてしか承認できないが、行為記述に関して受け手絶対主義を認めることは容易である。
 (iii) これに対応させるなら、構成主義的責任論というのは「行為記述の数だけ責任がある」という立場だということになる。しかし構成主義的に認められる行為記述の中には論理的に両立不能なものが含まれうる。つまり誤解の可能性がある。「AはBを殺した」と「AはBの命を助けた」はいずれも行為記述であるが、両立しえない。もし本当に構成主義的な責任論を採用するなら、AはBの殺人に対して「責任があると同時にない」という馬鹿げた言明を理論家が自らしなければならなくなる。
 (iv) だから責任理論として最低限の合理性を確保するために、北田は「歴史の実在論」をもちだしてくる。つまり出来事の因果連鎖との対応を、責任認定(逆にいえば責任阻却)の《規準》とするのである。
 (v) ところで北田によると「弱い」責任理論の定義特性にして問題点は、コミュニケイションの現場を離れた第三者的《規準》の採用にある。さて、「強い」責任理論が採用している「因果関係の存在」は、第三者的《規準》ではないのだろうか。そう主張する根拠があるとは思えない。ゆえに「強弱」は程度問題であり、「強い」理論は《規準》が緩いという以上のことを意味しない。

(2) 「強い」責任理論の存在証明は成立しない

 (i) 北田がここで「存在証明」と呼んでいるのは、責任理論上の立場と存在論上の立場を対応させ、存在論上の一方の立場を否定することで、それに対応する責任理論上の一方の立場を否定する、という議論様式である。具体的には、「強い」責任理論と外延理論、「弱い」責任理論と性質理論を対応させ、性質理論は不合理だから「弱い」責任理論も不合理だという運びになっている。さて、この議論はいくつもの点で破綻している。以下確認していく。
 (ii) まず、「強い」責任理論が性質理論を採用できないということの根拠が薄弱である。責任は行為者に帰属されるものである以上、性質によって定義される複数の行為をまとめる行為者が存在するならば、性質理論と「強い」責任理論は両立可能である。「強い」責任理論は因果関係と適合的な行為記述の数だけ責任が存在するということだけ要請すればよいのであって、それが一つの行為の記述であるか、それとも行為記述の数だけ行為が存在すると考えるかについては無差別であってよいはずである。つまり「殺人」と「戦争惹起」は別の行為であるが、いずれも当該行為者の行為であり、いずれも彼に責任があるという主張を「強い」責任理論は有意味に受け止めるだろう。
 (iii) とはいえ、(ii)を認めたとしても、「弱い」責任理論が性質理論しか採用できないのであれば、(性質理論の否定)⇒(「弱い」責任理論の否定)という議論が成立し、存在証明は成功ということになる。しかし残念ながら、こちらの結びつきも根拠薄弱である。そもそも[2-1]の問いは、「戦争惹起はAの意図せざる行為である」という構成主義的行為理論を前提としている。「意図せざる行為」を認めない廉で批判されていたはずの「弱い」責任理論が、この問いに有意味な回答を与えることができるとは思えない。「弱い」責任理論は、Aの意図に基づいて、彼は「殺人」という一つの行為だけをしたのだと主張するしかない。
 (iv) 性質理論の不合理についても納得できない。「記述の数だけ出来事があることになってしまう」という奇妙な結論は、「行為=出来事」という等式に基づいているが、だとすれば外延理論を採用した場合、「殺人」と「戦争惹起」が同一の出来事だという、これまた奇妙な結論が導かれるのではないだろうか。当該箇所(p. 46-7)で北田は性質理論の不合理だけを指摘しているが、同じ理屈で外延理論も成り立たなくなるのである。しかも外延理論の場合は、出来事の因果連鎖という観念自体が無意味化するというかなり致命的なおまけまでついてくることになる。だから基本的に、出来事と行為は別のものとして考えるべきで、「記述の数だけ行為がある」という性質理論の帰結は、「一つの行為が永遠に続く」という外延理論の必然的帰結と同程度の奇妙さをもっている、という程度の指摘にとどめたほうがよいのではないか。

(3) 自然主義的責任理論である以上、倫理的な意味はもちえない

 (i) 北田は「強い」責任理論が倫理理論たりえないことの理由を「責任のインフレ」に求めている。もちろん、「強い」責任理論によるならば、全ての人が未来永劫全ての出来事に対して責任を負うことになるだろう。全ての出来事は因果的に連関していると考えられるし、不作為を勘案すれば全ての人が全ての出来事を引き起こしていると考えられるからだ。こんな事態が起こったのでは責任概念は倫理概念として何の役にも立たない。
 (ii) ではインフレ問題を解決すれば、北田の責任概念は倫理的な意味をもつようになるだろうか。残念ながらそれは無理である。なぜかというと、ここで責任と呼ばれる行為者の属性は、彼が(1)何らかの意図的行為を行い、(2)そこから始まる因果連鎖が存在し、(3)その連鎖に基づいた行為記述がなされた場合、行為者に帰属される性質であるにすぎないからだ。つまり本書で「責任」と呼ばれているのは、この三条件を満たした場合に行為者に見出される自然的性質以上のものではない。
 (iii) 問題なのは、「責任をとる」ということが何を意味しているのかについて、何も説明されていないことである。ふつう人が責任を認めたがらないのは、認めると付随的に嫌なことがあるからである(くびになる、金を払わされる、等々)。また「エンパワー」云々がいえるのも、責任を帰属することによってその人にどんな行動を命じることができるかが予め分かっていてのことのはずだ。北田の議論はこういう責任概念の規範的側面を等閑視しているため、「あの人に責任があります」「ああそうですか」以上の進展はありえない。
 (iv) もしかしたら自然的性質としての責任の存在論を提出しておいて、あとは何とか政治学とかが勝手に「責任をとる」ことの内容を規定すればいいと考えているのかもしれない(というかそれしか道はない)が、そういう態度は暴力、密輸入、詐欺などのうちのどれか、あるいは全てである。
 (v) 結局、規範的含意が不特定である以上、「強い」責任理論というのは、いくつかの条件を組み合わせたときに行為者に見出される属性を「発見」し、それに「責任」という、我々がよく知っているあの「責任」と紛らわしい名前をつけただけにすぎない。つまり倫理的な理論としては「無」である。
 (vi) さらにいえば、「強い」責任理論では、行為記述一般と、「責任を問う」という形での特殊な行為記述とを区別することが原理的にできない。これは理論の記述(事実説明)的な性能という点からも欠陥があるということである。

3.《制度の他者》から《自由主義者》への「契約論」(仮想人類学)は分類論にすぎない

 北田は第四章第二節・第三節(p. 137-176)で、《制度の他者》が最終的に《リベラル》へと堕落していく過程に対して、当人が堕落以前に当の堕落を納得できるような「理由」を提示することで、《他者》の存在を隠蔽することなく、《他者》による自発性を確保しようとしている(いわば言質を取ろうとしている)。以下、この「契約論」がどの段階においても成功しておらず、ただ世の中にはこういう人もいるという分類論以上にはなっていないことを論証する。

(1) 《制度の他者》から《規範の他者》

(1-1) 制度とは何か

 《制度の他者》というときの「制度」とは、第三章第二節で紹介されているSearleによる「存在」⇒「当為」の導出論(p. 94-98)における大前提のことである。Searleの論証というのは存在(A)と当為(B)の間に[(A⇒B)⋀A]⇒Bというトートロジーが成立することをいっているだけであり、この(A⇒B)が制度と呼ばれている。この制度を大前提とすることで張られる空間の内部ではA⇒B(存在⇒当為)が自明視される。

(1-2) 《制度の他者》とはどういう人か

 上記の制度(A⇒B)を認めない人を《制度の他者》という。この人にとっては存在⇒当為が自明ではない。北田は殺人、責任、他者の尊重といった具体例 で考えているが、議論の明確化のためには次のように一般的な表現をするのが適切だと思う。(以下、これに合わせて表現を変更している。)
《制度の他者》: 「べし」という語(に含まれる当為性)を理解できない人
つまり「べし」(およびそれに類する語)を発話する、書く、等々の事実(=存在)に際して、我々がふつう感得する「当為性」を見出すことができない人のことである。

(1-3) 《規範の他者》とはどういう人か

 《規範の他者》についても北田は、「特定制度に対する」という限定を掛けているが、議論の展開上この限定は何の役割も果たしていない。ゆえにやはり次のように一般化するのが適切である。
《規範の他者》: 「べし」の当為性は理解しているが、自分はその適用外にあると思っている人
当為命題の適用範囲外に自分を置いている人のことである。

(1-4) 堕落の論理

 (i) 《制度の他者》から《規範の他者》への「自発的堕落」は、「解答を得ることによる問いの必然的変質」という永井均的な論理で説明されている。そこでまず、そもそも「どうして当為性なんてものがあるのか」と問わない人(真性の《制度の他者》)は、契約の候補から除外される。問わない人には解答を与えられないから。
 (ii) そこで、問う人(仮性の《制度の他者》)だけが候補となる。ところが上の問いには適切な解答が存在しない。解答は問いを誤解してはじめて可能になる(問いの伝達不可能性)。つまり
①当為性一般への疑問ではなく、特定の当為に対する疑問と誤解した上で、別の当為に依拠した解答を与える
②当為性一般への疑問ではあるが、自分がその適用範囲に入ることに対する疑問と誤解した上で、当人が当為命題の適用範囲に入ることの、当人にとっての利益(あるいは非当為的な理由一般)を根拠にした解答を与える
の二種類しか解答が存在しない。この二つの解答候補を提示した上で、誤解されるなら問わない(伝達の断念)という人は除外される。
 (iii) こうして誤解されてもいいという人だけが契約の候補となる(折衝の開始)。①の誤解は、当為制度内への吸収を意味するため、自分という特権的主体を制度外に確保できる②のほうがまし、ということで、②の解答が解答として認められ(つまり正解・不正解の判断対象となり)、自分が問うていた問いが「なぜ自分が当為制度の適用範囲内に含まれるのか」へと変質する。つまり《規範の他者》となる。

(1-5) どこが間違っているか

 (i) 上の話は、誤解されてもいいから解答がほしいという人は《制度の他者》から《規範の他者》に堕落するというストーリーだが、この人は本当に《制度の他者》だといっていいのだろうか。《制度の他者》としてのアイデンティティは、その人が立てている問いの種類によって定められているわけだが、「別に自分の問いに対する答えじゃなくてもいいから、とにかく何か答えてくれ」という人は、ただ変な問いを他人とのコミュニケーションのきっかけにしようとしている「淋しがり屋」にすぎず、《制度の他者》などという大層なものではない。結局、《制度の他者》は、その問いの伝達不可能性のゆえに、《制度の他者》としての同一性を保持するためには問いを断念せざるを得ないのであり、自発的な堕落はありえない。上記②の解答を解答と認めるのは、最初からこの解答に対応する問いを問うていた人=《規範の他者》しかいない。「解答を得ることによる問いの必然的変質による堕落」論は失敗である。
 (ii) そもそも「答えてもらいたいという特異な欲求」(p. 138)を「『問う』行為に文法的に見いだされる欲求」(p. 139)として《制度の他者》に帰属することは、論理的に不可能である。《制度の他者》は、自分が発してるのがいやしくも「問い」である以上、答えを求めている「べき」だということを理解できないはずだ。ここで北田が《制度の他者》と呼んでいるのは、実のところ「問い‐答え」の文法に関する公的ルールを優先する《自由主義者》に他ならない。

(2) 《規範の他者》から《エゴイスト》

(2-1) 時間選好について

 各段階での《他者》が時間選好に関してもつ特徴について、北田は自分の議論を誤解しており、含意と称して新しい条件を追加している。以下指摘する。
 (i) 《制度の他者》の無時間性。ここで無時間性というのは時間選好が不可能ということで、時間選好とは時点を異にする利益・効用を同時に判断材料とすることである。北田は、《制度の他者》にはそもそも「特定の自己利益・欲求・選好といったものを帰属することはできない」(p. 156)ために、時間選好概念も無意味だと論じるが、[4-4]が述べているのは、自己利益が《制度の他者》の問いの動機ではないこと、ゆえに自己利益は彼の問いに対する解答にならないということ以上ではありえない。《制度の他者》は時間選好をもちうるが、その問いにとってはその情報が無関係だということ以上はいえない。時間性をもたないとか自己利益をもたないなどという不要な条件を加えて、いたずらに《制度の他者》を怪物的な存在に仕立て上げるべきではない。そもそも自己利益をもっていないのであれば、自己利益に訴えかけるグラウコン的説得術に説得される(騙される)ことだってありえないはずだ。
 (ii) 《規範の他者》の現在中心主義。(ふつう現在中心主義というのは、現在を中心にしてそこから時間的距離が離れるほど利益を割り引いて考えることをいうが、北田は永遠の現在を生きる刹那主義のことを指している。)これについては説得的な論拠が一つも挙げられていない(自明視されているだけ)。時間選好をもちつつ、自分だけは特別扱いすることがなぜ不可能なのか。まったく理解不能である。

(2-2) 現在中心主義者は長期的視点を採用する動機をもたない

 ともかく北田の言に従って、《規範の他者》は現在中心主義(刹那主義)だということにしておく。この人に対して長期的視点の採用を提案し、受け入れた人は《エゴイスト》に堕落するというのが次の議論である。ここで北田は、《規範の他者》に強弱があるといい、強い人はこの提案を受け入れないために契約の対象から除外するという。ところがこの強弱を分ける基準についてはどこにも書かれていない。もしかすると将来の利益を勘案すること自体を「弱い」と表現しているのかもしれないが、だとすれば(長期的視点の採用)⇒(弱い)という関係になっているのであって逆ではない。つまり《規範の他者》は誰でも定義上「強い」のであって、誰も長期的視点を採用せず、ゆえに全員が契約の対象から外されることになる。《規範の他者》⇒《エゴイスト》への移行は、あらゆる意味で不可能である。

(2-3) 《規範の他者》はいつのまに《自己利益主義者》へと堕落したのか

 《規範の他者》というのは当為命題の適用範囲から自分だけを特例的に除外する人のことであって、この定義自体の中には「自己利益を判断基準にする」などということは含意されていない。「自己利益」云々が出てきたのは、《制度の他者》説得の際である。この説得が失敗であることは既述だが、仮に成功だとしても、《制度の他者》は、「自己利益に適うから」という解答に賛成することで《規範の他者》となったのではない。この解答にいやしくも解答としての資格(正解・不正解の判断対象となる資格)を認めただけのはずだ。にもかかわらず、いつのまにか《規範の他者》は自己利益を判断基準とする《自己利益主義者》へと堕落している。

(2-4) 「自分に当為性を認めること」と「規範に従った行動をとること」は違う

 長期的視点をもった《エゴイスト》は、長期的利益のために「とりあえず従うフリ」(p. 160)をするといわれているが、こういう行動水準での随順は、当為性の意味や自己への適用をテーマとしていたはずの本筋から見ると、まったく無関係である。つまり普段から長期的自己利益を勘案して規則随順行動をとる癖がついているが、そもそも「べき」という語の意味がわからない(《制度の他者》)とか、自分がしている行動を自分がす「べき」とは思っていない(《規範の他者》)ということはいくらでも可能である。

(3) 《エゴイスト》から《リベラル》

(3-1) 《エゴイスト》、《リベラル》とはどういう人か

《エゴイスト》: 世界の善を決めるときに、通時的な自己利益(善)だけを勘案し、かつそれをpositiveに評価する人
《リベラル》: 世界の善を決めるときに、自己利益(善)だけでなく他人の利益(善)も勘案し、かつそれをpositiveに評価する人

(3-2) 「《エゴイスト》⇒《リベラル》」は暴論である

 (i) 北田は両者の間に標題の含意関係があると主張している。そんなわけがないのは誰の目にも明らかだと思うが、以下どこがおかしいのか指摘する。
 (ii) 論拠になっているのは「未来・過去の自分をある種の他人のようなものだと考えるなら、他人をある種の自分のようなものだと考えない理由はない」というParfitの議論である。さて、いつのまに《エゴイスト》は「未来・過去の自分をある種の他人のようなもの」だと考えるようになったのだろうか。
 (iii) 北田の契約論が成功しているとして、《規範の他者》が受け入れたのは、「未来・過去の自分も自己利益の範疇に入れること」である。《規範の他者》は自分を特例的な存在だと考えて、世界の善=自分の善だと考えているが、別に他人の存在を知らないわけではない。ただ自分を特例扱いしているだけである。彼は「現在以外のあなたも特別なんじゃないですか」といわれて「そうですね」といっただけなのだ。現在以外の自分を凡百の他人の水準にまで貶めたのではない。
 (iv) Parfitの議論は、「自己同一性を特別なものと考えないならば」という条件付であることを想起しなければならない。これに対して《規範の他者》が自己同一性を特別視していることは明らかである。彼は未来の「自分」だからこそ、世界の善を算出するための定義域に算入することを決めたのである。
 (v) 北田は非リベラル派《エゴイスト》の存在不可能性を論証するといっておきながら(p. 164)、結論は「非リベラル派《エゴイスト》の態度には、どこか独断臭が漂っているのである」(p. 167)程度のものに留まっている。エゴイストが独断的なのは誰でも知っていることだが、もっと独断的なのは独断性と不可能性を同一視する北田自身ではないか。
 (vi) さらに、百歩譲って、現在以外の自分の善を勘案することが他人の善を勘案することを含意することを認めたとして、《規範の他者》はそんなひどい条件の契約に同意するだろうか。含意を隠して提案したのだとすれば、それは詐欺ではないか。「我々の申し出に食いついてきた《規範の他者》は、あくまで主体的・能動的に第二の妥協に応じ、そして堕落したのである」(p. 172)という口上は、いかにも詐欺師の言い逃れ然としていないだろうか(「契約書読まないで実印押したのはあんただろ」)。
 (vii) さて含意関係が成り立たないからといって、《エゴイスト》が絶対に《リベラル》たりえないわけではない。Parfit的な理屈をこねれば説得される《エゴイスト》もいるかもしれない。もちろん説得されない人はまたも契約の対象から外れていくことになる。

(4) 《リベラル》から「ルール準拠的態度」

(4-1) 「ルール準拠的態度」とは何か

 ルール準拠的態度: 自分の善、他人の善とは別に、「ルール」を世界の善を決めるために勘案し、かつそれをpositiveに評価する態度(「善」以外に「正」という基準の存在を認める)

(4-2) 「《リベラル》⇒「ルール準拠的態度」」は暴論である

 (i) 北田は標題のような含意関係があると主張している。これはつまり、「他者への共感能力をもつ」ならば必ず「ルールの存在を認める」ということであり、追加条件なしに成り立つとは到底思えない。([5-3]を[5-4]と[5-5]に分けているところを見ると、含意関係ではなく同値関係を主張しているのかもしれないが、「ルール準拠」⇒《リベラル》は行論上何の役割も果たしていない。)
 (ii) 《リベラル》(L)と「ルール準拠」(R)の間に含意関係が成り立たないことを示すには、①「L⇒R」に対しては「Lかつ¬R」、②「R⇒L」に対しては「Rかつ¬L」なる反例が存在することを示せばよい。①の例としては「自分と他人の善をその都度場当たり的に世界の善に変換する」という事態が可能である 。②の例としては「今日できることを明日にまわさない」という(他人の善に言及しない)ルールが可能である。ゆえにLとRの間にはいかなる含意関係もない。
 (iii) 北田はウィトゲンシュタインの事例が反例にならないことをもって[5-4]の成立を主張しているようだが、一つの反例が失敗したからといって、反例が存在しないということの証明にはならない。
 (iv) そもそもウィトゲンシュタインの例はここでの議論と何の関係もない。北田は「共感能力」⇒「不偏性」⇒「私的でない」⇒「私的にルールに従うことの不可能性」という連想ゲーム に自分で騙されているだけである。そもそも「《リベラル》でない」というのは「世界の善を勘案する際に他人の善を考慮しない」ということでしかないのであって、他人に理解できないような仕方でルールに従う云々で言われるところの「理解に関するエゴイスト」であることを含意しない。件の生徒がこの厳密な意味で《リベラル》であるかどうかは不明なのだから、この例は議論と無関係なのだ。《リベラル》かどうかというのは倫理的判断能力にかかわる事柄であって、認識論的理解能力とは別次元の問題であるはずだ。そもそも倫理判断における共感能力の欠如として定義されていたはずの非《リベラル》性が、いつのまにか認識論的な能力欠如をも包摂するようになり、それに伴って非《リベラル》が怪物化していくさまがここにも見られる(行き着く先が火星人や精神病である)。

(5) 《リベラル》から《自由主義者

(5-1) 加害原理について

 (i) 「個人は、他者に危害を加えないかぎり、自由に自らの善を追求する平等な権利を持つ」(p. 201)という「加害原理」を、リベラルが承認するというのは北田のいうとおり。ただし、これは提案‐承認という過程で出てくるものではなく、他人の善をpositiveに評価するという《リベラル》の定義そのものの中に含意されていることである。「《リベラル》⇒「加害原理」」という含意関係が成立する。
 (ii) これは瑣末な指摘かもしれないが、「厳密に解釈された加害原理の下では禁じられかねない様々な行為」(p. 204)という表現を見ると、加害原理が「他者に危害を加える行為は絶対禁止」ということを含意しているといっているのかと思えてしまう。当然、加害原理を厳密に解釈すれば、それが他者への危害が存在しない場合だけを対象とした限定的原理であることは明らかである。それ以外の場合については何も語っていない。そして「あらゆる場合について規定した原理が存在しなければならない」というかなり強い要請を置かないかぎり、「加害原理は、その実効性(自由)を確保するために避け難く正当化原理による補完を必要とする」(p. 205)わけではない。

(5-2) 正当化原理について

 (i) 「他者に悪をもたらす行為は、自他ともに共有しうる理由によって正当化されなくてはならない」(p. 203)という「正当化原理」が、《リベラル》であることの中に含意されているわけではないというのは、そのとおり。ところが不可解なことに、北田は「含意されていない」と指摘するだけで議論をストップさせてしまう。ここまで指摘してきたとおり、北田は含意関係がないところでもかなり強引な契約を迫っていたはずで、当然ここでも《リベラル》に対して、《自由主義者》へと「堕落」させるための説得の努力がなされるべきなのではないだろうか。少なくとも、《制度の他者》を《規範の他者》に堕落させたり、刹那主義者(《規範の他者》)に長期的視点を採用させるよりは、《リベラル》に正当化原理を承認させることの方が格段に楽だと思うのだが。

4.リベラル国家は「薄く」もなければ「濃く」もない

(1) リベラル国家は「薄く」ない

 (i) 北田は正当化原理が正当化理由の内容を具体的に規定していないことをもって、リベラル国家が複数可能な正当化理由に対して中立的な立場に立つ、つまり「薄い」と主張している。
 (ii) しかし正当化理由が特定されない限り、正当化原理は利害対立の調停原理としての実効性を獲得できない。正当化原理が実効的でないとリベラル国家は不可能だ、というのが北田の所説である。ゆえにどんな「具体的」なリベラル国家も、特定の正当化理由にコミットしているはずである。したがって「天上」ならぬ「地上」のリベラル国家は、上記のような意味で「薄い」わけではない。
 (iii) もしかして北田が「薄い」といっているのは具体的なリベラル国家ではなく、政治思想としてのリベラリズムのことなのかもしれない。だとしたら話はわかるが、リベラル国家というのがどんな政体であるかを探求するという第六章の主題にそぐわないし、いずれにせよリベラル国家が「薄く」ないことに変わりはない。

(2) リベラル国家は「濃く」ない

 (i) 北田は「他者に災厄=悪をおよぼしていない者が、一般の社会構成員が当然のようにして享受している『善を追求する自由』を阻害されている」(p. 242)事態は、主として加害原理に対する違反であり、補償されるべきだというラディカルな再配分政策を含意する、つまりリベラル国家は最大限の拡大国家であり「濃い」と主張している。
 (ii) しかしこの議論は、加害原理の連想ゲーム的誤解釈に基づく幻想にすぎない。「個人は、他者に危害を加えないかぎり、自由に自らの善を追求する平等な権利を持つ」という加害原理は、「他人に危害を加えない行為を禁じてはならない」という原理である。ところがここで北田が想定しているのは「他人に危害を加えていない人の行為を禁じてはならない」という原理である。当然のことだがこんな原理は《リベラル》の定義に含意されているわけではないし、この原理に北田のいうラディカルな再配分が含意されているとしたら、《リベラル》がそれを「難なく承認」(p. 201)するわけがない。この含意を隠した上で契約を迫ったのだとしたら、やはりそれは詐欺といわざるをえない。

5.機能主義的正当化しかないというのは正当化できないのと同じである

(1) 責任のインフレとコミュニケイション接続の困難とは同じではない

 (i) 第七章の議論は、責任のインフレによってコミュニケイション接続が困難になるという前提から出発しているが、その根拠がよくわからない。責任のインフレというのは、責任概念を適用する事例が爆発的に増えることで責任概念の倫理的含意が無化するという話だったが、これは責任概念によって倫理的な事柄にコミットしようとする理論家にとっての問題であって、別にコミュニケイション当事者にとっての行為記述の選択肢が爆発的に増えるという含意はない。基本的にこの二つは無関係だと考えるべきだと思う。
 (ii) もしかすると「強い」責任理論が世に知られることで、みんなが「責任を問う」型のコミュニケイションばかりをするようになる、という事態を心配しているのかもしれないが、人々はこの理論には規範的含意がないことも含めて受容するだろうから、この理論に人々を「責任を問う」型のコミュニケイションに動機付ける力はない。よって接続問題は生じない。
 (iii) かりに責任のインフレによって接続問題が生じるとしても、提示されている責任処理様式では、接続契機の確保は難しい。例えば《正義》による責任処理は、加害原理、正当化原理、不偏性要求という三つの原理を適用することで許容可能な責任を特定していくわけだが、そもそもこのような作業をしている時点でコミュニケイションは停滞しているといわざるをえない。責任のインフレを収束させることは、接続可能性を保証することを意味しないのである。

(2) 機能主義的正当化は原理的に不可能である

 (i) リベラリズムの規範的正当化は不可能だが、機能主義的正当化という形で社会学的に居場所を確保できるというのが本書全体の結論のようだ。しかし「何らかの機能を果たしているという理由で対象を説明したり正当化する議論は、同じ機能を果たす別の対象としての機能的等価物の存在可能性のゆえに、原理的に不可能」というのはMertonやNagelやHempelが決定的な形で主張し、Luhmannをして「機能主義の極意は説明や正当化とは正反対に比較=代替可能性の探求にある」と喝破せしめたいわゆる「定説」である。「それ以外の正当化の道筋が残されているだろうか」(p. 330)という最後の希望は、正当化は不可能だということを意味することになる。機能主義というのは相対化の方法なのだ。